ホタル帰る
――特攻隊員と母トメと娘礼子
あとがき
本書はある出会いから生まれた。二〇〇一年の一月十一日、私は畏友の大野豊氏と新宿の末広亭に行き、そのあと郷土料理「薩摩おごじょ」を訪ねた。大野氏は映画の製作配給をするワールド・テレビジョンという会社の社長で、「薩摩おごじょ」と特攻隊についてのテレビ映画を作り放映したことがあり、店を経営する赤羽茂一・礼子夫妻とは懇意の間柄であった。折から撮影が進行中の映画「ホタル」のポスターが店に貼ってあった。この映画は赤羽礼子さんの母で“特攻の母”とうたわれた鳥浜トメとホタルになって帰ってきた特攻兵士の宮川軍曹や光山小異などの話にヒントを得て、自由に書きおろした脚本によっている。ひとしきりそれらの話題を中心に話がはずんだ。だが、そこの話では、これまで鳥浜トメについて書かれた記述には誤りが多いということがわかった。その一半の責任は鳥浜トメ自身にもあるという。なぜなら、新聞やテレビ、フリーライターなど、およそジャーナリズムに関係する人間を晩年のトメは極端に嫌い、そういう人たちには口を閉ざして語ろうとしなかったし、かりに何かを語ったとしても、いい加減な返事しかしなかったからである。トメのジャーナリズム嫌いは、一つには戦後の“民主化”の時代にジャーナリズムが軍国主義否定の立場から特攻隊員を冒涜するような軽薄な言動を弄したことに対する怒りから発しているが、また一つには、ジャーナリズムの“取材”と称するものが常にインチキなものであることによる。彼らはトメに取材しておきながら、勝手に自分たちの先入観や独断を加えて、トメの発言をあるいは無視し、あるいは歪曲し、けっして正確に伝えようとしないからである。およそ“取材”を受けた者なら経験があろう。トメにはそれががまんならなかった。晩年のトメはおびただしい取材攻勢にあったが、ただ一人の例外を除いては、彼女の答えは「あんたらに話すことは何もないよ」の一点張りであった。
こうして特攻隊についての最高の語り部であるはずの鳥浜トメは、ほとんど口をつぐんだまま他界したと言っていい。そのトメに添ってあの動乱期を生きた人物が二人いた。一人はトメの長女、見阿子であるが、彼女は昭和四十九年に亡くなっている。残るは二女の礼子だけで、そうなると、いま鳥浜トメや知覧から出撃した特攻隊員についての語り部となれるのは、この人をおいてほかにはないということになる。彼女は事実、多くの人から「礼子さん、あなたの知っていることを書いて残しなさい」と言われてきた。
「しかし私には書く手がない」と赤羽礼子さんはその席で言われた。そこで、きわめて僭越ながら、私がその書き手になろうと申し出たのである。私がそんな申し出をしたのには多少の根拠をなしとしない。一つには私は分野はちがうけれど“もの書き”を職業としていることである。もう一つは、私は航空機乗員養成所本科生という航空兵の卵だった経歴を持ち、また私の兄は同操縦科十四期生でパレンバンで死んだ航空兵であること、つまり当時のことを知っている人間だということである。現在市販されている特攻隊や鳥浜トメに関する本のなかにはあり得ないような誤りを書いているものもある。そういった誤りも、私が書けば起こらないのではないか。以上二つの根拠で私は語り部の書き手となることを申し出たのであった。
赤羽礼子さんはテープ九本、十二時間に及ぶ口述をされ、トメの孫にあたる鳥浜明久さんにも一時間ほど口述していただいた。加えて鳥浜トメ直筆の手紙をはじめ、戦争中の日記、写真その他、段ボール箱一杯におよぶ赤羽礼子さんが保存する貴重な資料を貸していただくことができた。それにより、鳥浜トメと特攻兵たちの交流をはじめ、多くの人の“母”として生きたこの偉大な女性の実像に迫る本を初めて誕生させることができたと信じる次第である。
戦後多くの人が鳥浜トメに会い、その人物の大きさに打たれているが、彼女を生ける観音と呼んだ石原慎太郎氏もその一人である。晩年のトメは有名人をあまり信用しなかったが、石原氏には気を許していた。湾岸戦争が始まったのは一九九一年、トメの死の前年に当たるが、テレビに映し出される“戦争の映像”に、トメはひどく心を痛め、早く戦争が終わり平和になるようにと毎日祈っていた。そのため、それが終わったときには狂喜し、「戦争が終わったのは、私の手作りのさつま揚げを、石原慎太郎さんを通してブッシュ大統領に届けたから」と言ったという。それがトメの一時的な幻覚だったのか、おとぼけであったのかはだれも知らない。
赤羽礼子さんは、知覧飛行場で「なでしこ隊」として奉仕していたとき、グラマンの機銃掃射を受け、眼の前に敵の飛行機がのしかかり、敵の操縦士の顔を間近に見たときのことをいまでも夢に見ては、その恐ろしさに悲鳴を上げて飛び起きることがあるという。戦争の傷跡はまことに深く、私も本稿を執筆しながら、ティッシュの山の中で仕事をした。それは涙なしには一字も書けないような話の連続であった。そうした記録は風化させてはいけないし、その意味で本書が、知覧の特攻平和会館や観音像の一助となり、多くの人に読まれることを願って筆を擱きたい。
本書はある出会いから生まれた。二〇〇一年の一月十一日、私は畏友の大野豊氏と新宿の末広亭に行き、そのあと郷土料理「薩摩おごじょ」を訪ねた。大野氏は映画の製作配給をするワールド・テレビジョンという会社の社長で、「薩摩おごじょ」と特攻隊についてのテレビ映画を作り放映したことがあり、店を経営する赤羽茂一・礼子夫妻とは懇意の間柄であった。折から撮影が進行中の映画「ホタル」のポスターが店に貼ってあった。この映画は赤羽礼子さんの母で“特攻の母”とうたわれた鳥浜トメとホタルになって帰ってきた特攻兵士の宮川軍曹や光山小異などの話にヒントを得て、自由に書きおろした脚本によっている。ひとしきりそれらの話題を中心に話がはずんだ。だが、そこの話では、これまで鳥浜トメについて書かれた記述には誤りが多いということがわかった。その一半の責任は鳥浜トメ自身にもあるという。なぜなら、新聞やテレビ、フリーライターなど、およそジャーナリズムに関係する人間を晩年のトメは極端に嫌い、そういう人たちには口を閉ざして語ろうとしなかったし、かりに何かを語ったとしても、いい加減な返事しかしなかったからである。トメのジャーナリズム嫌いは、一つには戦後の“民主化”の時代にジャーナリズムが軍国主義否定の立場から特攻隊員を冒涜するような軽薄な言動を弄したことに対する怒りから発しているが、また一つには、ジャーナリズムの“取材”と称するものが常にインチキなものであることによる。彼らはトメに取材しておきながら、勝手に自分たちの先入観や独断を加えて、トメの発言をあるいは無視し、あるいは歪曲し、けっして正確に伝えようとしないからである。およそ“取材”を受けた者なら経験があろう。トメにはそれががまんならなかった。晩年のトメはおびただしい取材攻勢にあったが、ただ一人の例外を除いては、彼女の答えは「あんたらに話すことは何もないよ」の一点張りであった。
こうして特攻隊についての最高の語り部であるはずの鳥浜トメは、ほとんど口をつぐんだまま他界したと言っていい。そのトメに添ってあの動乱期を生きた人物が二人いた。一人はトメの長女、見阿子であるが、彼女は昭和四十九年に亡くなっている。残るは二女の礼子だけで、そうなると、いま鳥浜トメや知覧から出撃した特攻隊員についての語り部となれるのは、この人をおいてほかにはないということになる。彼女は事実、多くの人から「礼子さん、あなたの知っていることを書いて残しなさい」と言われてきた。
「しかし私には書く手がない」と赤羽礼子さんはその席で言われた。そこで、きわめて僭越ながら、私がその書き手になろうと申し出たのである。私がそんな申し出をしたのには多少の根拠をなしとしない。一つには私は分野はちがうけれど“もの書き”を職業としていることである。もう一つは、私は航空機乗員養成所本科生という航空兵の卵だった経歴を持ち、また私の兄は同操縦科十四期生でパレンバンで死んだ航空兵であること、つまり当時のことを知っている人間だということである。現在市販されている特攻隊や鳥浜トメに関する本のなかにはあり得ないような誤りを書いているものもある。そういった誤りも、私が書けば起こらないのではないか。以上二つの根拠で私は語り部の書き手となることを申し出たのであった。
赤羽礼子さんはテープ九本、十二時間に及ぶ口述をされ、トメの孫にあたる鳥浜明久さんにも一時間ほど口述していただいた。加えて鳥浜トメ直筆の手紙をはじめ、戦争中の日記、写真その他、段ボール箱一杯におよぶ赤羽礼子さんが保存する貴重な資料を貸していただくことができた。それにより、鳥浜トメと特攻兵たちの交流をはじめ、多くの人の“母”として生きたこの偉大な女性の実像に迫る本を初めて誕生させることができたと信じる次第である。
戦後多くの人が鳥浜トメに会い、その人物の大きさに打たれているが、彼女を生ける観音と呼んだ石原慎太郎氏もその一人である。晩年のトメは有名人をあまり信用しなかったが、石原氏には気を許していた。湾岸戦争が始まったのは一九九一年、トメの死の前年に当たるが、テレビに映し出される“戦争の映像”に、トメはひどく心を痛め、早く戦争が終わり平和になるようにと毎日祈っていた。そのため、それが終わったときには狂喜し、「戦争が終わったのは、私の手作りのさつま揚げを、石原慎太郎さんを通してブッシュ大統領に届けたから」と言ったという。それがトメの一時的な幻覚だったのか、おとぼけであったのかはだれも知らない。
赤羽礼子さんは、知覧飛行場で「なでしこ隊」として奉仕していたとき、グラマンの機銃掃射を受け、眼の前に敵の飛行機がのしかかり、敵の操縦士の顔を間近に見たときのことをいまでも夢に見ては、その恐ろしさに悲鳴を上げて飛び起きることがあるという。戦争の傷跡はまことに深く、私も本稿を執筆しながら、ティッシュの山の中で仕事をした。それは涙なしには一字も書けないような話の連続であった。そうした記録は風化させてはいけないし、その意味で本書が、知覧の特攻平和会館や観音像の一助となり、多くの人に読まれることを願って筆を擱きたい。
二〇〇一年四月 石井宏