ドキュメンタリーは嘘をつく
自らが正義であると思い込んだメディアは暴走する。不偏不党や客観公正などの幻想を、当然のように既存のものと思い込んだ瞬間から、この助走は始まっている。
多様化するマスメディアが宿命的に陥るこの思い込みは、飛び地のようなドキュメンタリーというジャンルに、きわめて象徴的に現れる。その理由のひとつは、ドキュメンタリーという領域が、とても曖昧に定義されていることに由来すると僕は考える。
表現行為というよりも事実の客観的記録としてドキュメンタリーを見なす人のほうが、特に日本においては多数派だろう。観る側だけではない。撮る側もこの錯誤に浸かっている。観る側と撮る側が無自覚に加担するこの領域で、ドキュメンタリーを事実の記録と見なす幻想は発生する。だからこそ(特にテレビ・ドキュメンタリーの領域において)、「ヤラセ」や「仕込み」などのレベルのスキャンダルが、あってはならないこととして、いまだにこれほどに物議をかもす状態が続いている。
「ドキュメンタリーは事実の記録なのか?」
この命題に僕は、そもそも設問の立て方に無理があると答えるだろう。ピカソやゴーギャンの画を前にして、これは事実か否かなどと悩む人はいない。
「でも油絵の場合は」とあなたは反論する。
「確かにキャンバスに再現された風景や人は絵具で描かれているが、ドキュメンタリーの場合は、実際に存在する風景や人じゃないか」
うん、確かにそうだ。でもならば、一般的な映画はどうだろう? スクリーンに映しだされる風景や人のほとんどは、実際に存在する風景や人のはずだ。
そこであなたは言う。
「詭弁だよ。映画の場合は台本がある。登場人物は皆、演技者じゃないか」
なるほど。でもドキュメンタリーの場合も、活字化はされてなくても台本はある。演技をしてもらうことだって珍しくない。
……この議論をもう少し煮詰めたいけれど、プロローグではここまでとする。ドキュメンタリーにおける虚構性については、本論でたっぷりと書くつもりだ。
一九九六年に自主制作ドキュメンタリー映画『A』を作り始めるまでの僕は、十年間テレビでドキュメンタリーを作ってきた。『A』以降は、三冊の単行本を書きながら三本のテレビ・ドキュメンタリーを作り、二〇〇二年に『A2』を発表して以降は、二本のテレビ・ドキュメンタリーを作り、四冊の本を書いて、短篇のギャグ映画を一本だけ作った(共著や対談本を入れればもう少しある)。
時にはメディアからインタビューなどをされることもある。「肩書はどうしましょうか、映画監督でいいですか?」などと訊ねられて、いつも返答に窮している。ならば考えればよいのだが、どうしても適当な肩書を思いつけないのだ。
これまでの映画作品はすべて自主制作だ。言いかえれば趣味の範疇なのだ。市民農園で畑を耕したり、SLの写真を撮りにゆくことと変わらない。収入にはほとんど結びつかない。プロフェッショナルの本来の定義からすれば、僕は映画監督の呼称に該当しない。
苦肉の策で少し前までは、「テレビディレクター・映画監督」と表記するようにしていたが、活字の依頼が少しずつ増えてくる過程と平行して、テレビの仕事からはしばらく遠ざかっているので、今はこの呼称にも何となく違和感がある。最近は「ドキュメンタリー作家」という呼称が多い。「ドキュメンタリー」で映像を、「作家」で活字を仄めかすという曖昧な表記だ。
……などと書きながら、多才ぶりを密かに自慢しているようで後ろめたい。映像と活字の双方を細々とこなしているというだけで、ベストセラーがあるわけではなく、映画がヒットしたわけでもない。要するに単に二つのジャンルに跨っているというだけで、それぞれの分野では凡庸以下のポジションだ。それでもこうして執筆の機会など与えてもらえるのは、「ドキュメンタリーを作る」という環境に身を置いて、考えたり迷ったり諦めたり覚悟したりをくりかえしてきたことで、多少は独自の発想が身についたからだろうと思っている。
多様化するマスメディアが宿命的に陥るこの思い込みは、飛び地のようなドキュメンタリーというジャンルに、きわめて象徴的に現れる。その理由のひとつは、ドキュメンタリーという領域が、とても曖昧に定義されていることに由来すると僕は考える。
表現行為というよりも事実の客観的記録としてドキュメンタリーを見なす人のほうが、特に日本においては多数派だろう。観る側だけではない。撮る側もこの錯誤に浸かっている。観る側と撮る側が無自覚に加担するこの領域で、ドキュメンタリーを事実の記録と見なす幻想は発生する。だからこそ(特にテレビ・ドキュメンタリーの領域において)、「ヤラセ」や「仕込み」などのレベルのスキャンダルが、あってはならないこととして、いまだにこれほどに物議をかもす状態が続いている。
「ドキュメンタリーは事実の記録なのか?」
この命題に僕は、そもそも設問の立て方に無理があると答えるだろう。ピカソやゴーギャンの画を前にして、これは事実か否かなどと悩む人はいない。
「でも油絵の場合は」とあなたは反論する。
「確かにキャンバスに再現された風景や人は絵具で描かれているが、ドキュメンタリーの場合は、実際に存在する風景や人じゃないか」
うん、確かにそうだ。でもならば、一般的な映画はどうだろう? スクリーンに映しだされる風景や人のほとんどは、実際に存在する風景や人のはずだ。
そこであなたは言う。
「詭弁だよ。映画の場合は台本がある。登場人物は皆、演技者じゃないか」
なるほど。でもドキュメンタリーの場合も、活字化はされてなくても台本はある。演技をしてもらうことだって珍しくない。
……この議論をもう少し煮詰めたいけれど、プロローグではここまでとする。ドキュメンタリーにおける虚構性については、本論でたっぷりと書くつもりだ。
一九九六年に自主制作ドキュメンタリー映画『A』を作り始めるまでの僕は、十年間テレビでドキュメンタリーを作ってきた。『A』以降は、三冊の単行本を書きながら三本のテレビ・ドキュメンタリーを作り、二〇〇二年に『A2』を発表して以降は、二本のテレビ・ドキュメンタリーを作り、四冊の本を書いて、短篇のギャグ映画を一本だけ作った(共著や対談本を入れればもう少しある)。
時にはメディアからインタビューなどをされることもある。「肩書はどうしましょうか、映画監督でいいですか?」などと訊ねられて、いつも返答に窮している。ならば考えればよいのだが、どうしても適当な肩書を思いつけないのだ。
これまでの映画作品はすべて自主制作だ。言いかえれば趣味の範疇なのだ。市民農園で畑を耕したり、SLの写真を撮りにゆくことと変わらない。収入にはほとんど結びつかない。プロフェッショナルの本来の定義からすれば、僕は映画監督の呼称に該当しない。
苦肉の策で少し前までは、「テレビディレクター・映画監督」と表記するようにしていたが、活字の依頼が少しずつ増えてくる過程と平行して、テレビの仕事からはしばらく遠ざかっているので、今はこの呼称にも何となく違和感がある。最近は「ドキュメンタリー作家」という呼称が多い。「ドキュメンタリー」で映像を、「作家」で活字を仄めかすという曖昧な表記だ。
……などと書きながら、多才ぶりを密かに自慢しているようで後ろめたい。映像と活字の双方を細々とこなしているというだけで、ベストセラーがあるわけではなく、映画がヒットしたわけでもない。要するに単に二つのジャンルに跨っているというだけで、それぞれの分野では凡庸以下のポジションだ。それでもこうして執筆の機会など与えてもらえるのは、「ドキュメンタリーを作る」という環境に身を置いて、考えたり迷ったり諦めたり覚悟したりをくりかえしてきたことで、多少は独自の発想が身についたからだろうと思っている。
森達也
一九五六年、広島県呉市生まれ。立教大学法学部卒。映画監督、ドキュメンタリー作家。一九九八年、オウム真理教の荒木浩を主人公とした自主制作ドキュメンタリー映画『A』を公開。ベルリン・プサン・香港、バンクーバーなど各国映画祭に出品し、海外でも高い評価を受ける。二〇〇二年に公開した続篇『A2』は山形国際ドキュメンタリー映画祭で審査員特別賞および市民賞をダブル受賞。上記二作のドキュメンタリー映画のほか、TV作品として『ミゼットプロレス伝説』〔制作。演出は野中真理子。一九九二年〕『ステージ・ドア』〔一九九五年〕『教壇が消えた日』〔一九九七年〕『職業欄はエスパー』〔一九九八年〕『一九九九年よだかの星』〔一九九九年〕『放送禁止歌』〔一九九九年〕を演出。著書には『いのちの食べ方』〔理論社〕『戦争の世紀を超えて』(姜尚中との共著、講談社)『世界が完全に思考停止する前に』〔角川書店〕『池袋シネマ青年譜』〔柏書房〕『下山事件』〔新潮社〕『A』〔角川文庫〕『A2』〔現代書館〕『職業欄はエスパー』〔角川文庫〕他。
一九五六年、広島県呉市生まれ。立教大学法学部卒。映画監督、ドキュメンタリー作家。一九九八年、オウム真理教の荒木浩を主人公とした自主制作ドキュメンタリー映画『A』を公開。ベルリン・プサン・香港、バンクーバーなど各国映画祭に出品し、海外でも高い評価を受ける。二〇〇二年に公開した続篇『A2』は山形国際ドキュメンタリー映画祭で審査員特別賞および市民賞をダブル受賞。上記二作のドキュメンタリー映画のほか、TV作品として『ミゼットプロレス伝説』〔制作。演出は野中真理子。一九九二年〕『ステージ・ドア』〔一九九五年〕『教壇が消えた日』〔一九九七年〕『職業欄はエスパー』〔一九九八年〕『一九九九年よだかの星』〔一九九九年〕『放送禁止歌』〔一九九九年〕を演出。著書には『いのちの食べ方』〔理論社〕『戦争の世紀を超えて』(姜尚中との共著、講談社)『世界が完全に思考停止する前に』〔角川書店〕『池袋シネマ青年譜』〔柏書房〕『下山事件』〔新潮社〕『A』〔角川文庫〕『A2』〔現代書館〕『職業欄はエスパー』〔角川文庫〕他。