www.soshisha.com
立ち読みコーナー
原爆を投下するまで日本を降伏させるな
――トルーマンとバーンズの陰謀
鳥居民
 アメリカの大統領ハリー・トルーマンと国務長官ジェームズ・バーンズの二人は、原爆の威力を実証するために手持ちの二発の原爆を日本の二つの都市に投下し終えるまで日本を降伏させなかった。
 これがこの本で考究する主題である。
 日本の人口の多い、無傷な都市に警告なしに原爆を投下する。世界に原爆を公開するその試みが終わるまで日本を決して降伏させない。その前段は事実であっても、後段は推測ではないかと疑問の声があがるにちがいない。

 そのとおりだ。ルーズベルトが急死して、トルーマンが新大統領となり、国務長官のバーンズがかれの新たな協力者となって、日本の二つの都市に二発の原爆を投下するまでの四カ月足らずのあいだ、この二人のあいだの論議はなにひとつ明らかにされることなく、二人が決めたことはなにも文字として残されていない。そこで私の主張のある部分は推測を繋げることにならざるをえない。
 もちろん、トルーマンとバーンズが戦中、戦後に、自分たちの非人道的な計画と狡知な意図を隠すために語ったその場かぎりの嘘、強弁、自己欺瞞は数えきれないほどある。

 それだけではない。トルーマンとバーンズの計画にずっと反対をつづけた人物が、これまたトルーマンとバーンズが嘘をついたのと同じ動機、すなわち、アメリカの正当性と大統領の名誉を守ろうとして、戦後になって論述した虚偽の説明がある。原爆の開発、製造のすべてに精通していた陸軍長官、ヘンリー・スティムソンがかつての部下の協力を得て、つくった弁護である。
 トルーマンが語ったこと、そしてスティムソンが戦後に述べた説明のみを歴史の案内人にして、自分の推理、考察をおろそかにすれば、事実からかけ離れたまったくの憶測や想像を叙述するだけで終わることになる。
 そのような嘘や誤魔化しがそのまま流通して、今日までだれもが知っている伝説が二つある。
 ひとつは、百万人のアメリカ兵の生命を救うために、原爆を投下したのだといったトルーマンの口上である。多くのアメリカ人がきまってこれを主張してきた。
 ルソン島と硫黄島と沖縄の戦いのアメリカ兵の戦死者の総計は二万七千人ほどであろう。本土の戦いで百万人という数字は、戦傷者を加えてのことだとしても、桁外れに多い。
 原爆を投下する前の四カ月のあいだ、日本本土上陸作戦で予想される犠牲者の数に懸念を表明する陸軍軍人はいなかった。ましてや海軍の首脳たちがそんな数字を挙げるはずもなかった。陸軍参謀総長ジョージ・マーシャルが百万という数字を語ることはなかったし、九州に強襲上陸を予定していた太平洋方面陸軍司令官ダグラス・マッカーサーもそんな数字を挙げたことはなかった。戦死者だけであれば、一万人以下という推定であり、アメリカの軍首脳がだれひとり論じることもなければ、考えもしなかった百万人の犠牲者という数字が登場したのは、戦後になってからの創作なのである。

 もうひとつ、日本人のだれもがよく知っている伝説がある。昭和二十年七月二十八日、そのときに首相だった鈴木貫太郎が「ポツダム宣言」を無視するといった意味合いで、宣言を「黙殺」すると語った。これが原爆投下を招いたのだという伝説である。
 多くの人びとがその話を信じたばかりでなく、少なからずの歴史研究者がその伝説をおうむ返しにしてきた。たとえば東京大学教授だった岡義武氏は、鈴木首相がポツダム宣言を黙殺したことが、広島、長崎への原爆投下になったのだと書き記した。
 それらの伝説を信じた研究者は、トルーマンは原爆を投下するかどうか、ずっと決めかね、ひどく苦しんでいたのだ、最後まで態度を決定できないでいたのだ、かれは日本政府の本心をついに掴めなかったのだと、まったくの自分の想像を書きつづることになった。
 ドグマティックな考えを持った研究者は自分の思いを書き記すことになり、アメリカの新聞の世論調査を掲げ、天皇に憎しみを抱くアメリカ国民の意向にトルーマンは気兼ねをせざるをえなかったのだと、これまた自分の憶測を述べることになった。

 さらには一橋大学教授だったハーバート・ビックス氏のように、原爆投下を招いたのは昭和天皇が戦いをつづけようとしたからだといった、憎悪だけの素朴な主張をつづることにもなっている。
 かれらが無視し、それこそ黙殺したのは、トルーマンとかれの協力者のバーンズがポツダム宣言を公表するにあたって、日本が降伏しないように入念な細工をほどこし、陸軍長官スティムソンの原案から天皇の地位保全の条項を削ってしまったという事実である、さらに、日本側をしてその宣言が正式の外交文書だと思わせないようにつくり、最終通告だという認識を持たせないように細心の注意を払い、日本側が間違いなく黙殺するように仕組んだことに目を向けようとしない。

 そして日本の多くの歴史研究者が見落としているのは、トルーマンとバーンズは都市に原爆を落とす実験を終えるまで、日本を降伏させなかったという単純な事実だけではない。投下を終えたあとに、トルーマンとバーンズが日本にたいしておこなった譲歩は、本当はポツダム宣言の草案から外した天皇の地位保全条項を加えただけであるにもかかわらず、そうとは気づかせないように企んだ策略、その巧みな隠蔽に騙されて、研究者たちはなにも気づいていないのである。

 だからといって、私がこれから説こうとすることは、だれとも異なる主張になると言うつもりはない。幾人かの研究者、ガー・アルペロビッツ氏、仲晃氏、五百旗頭真氏の研究は、かつて先輩たちが長いあいだ使ってきた虚偽の資料を捨て、以前には利用できなかった新しい資料を含めて膨大な文書資料から細密な分析をおこない、推理、解釈をくだしている。なかんずくアルペロビッツの著述はその研究の規模の大きさが圧倒的であり、その冷静で、公正な判断はだれをも納得させよう。
 私はかれらからずっと遅れてこの主題に取り組むことになった。そしてかれらの著書の推理、解釈を検討し、補強、修正、訂正を試み、一歩踏みだすことになるだけだと思っている。
 トルーマンとバーンズがやったことを調べ直すためには、一九四五(昭和二十)年の五月末にかれらがハリー・ホプキンズをソ連に行かせ、スターリンからソ連参戦の期日を聞きださせようとした事実の解明からはじめなければならない。9章「なぜかトルーマンはソ連参戦の期日を知りたがる」でそれを叙述することになろう。

 ところで、私はこの本のなかで架空の出来事を記すつもりでいる(断章「六月二十六日、チューリヒのグルー」)。つぎのようなフィクションである。
 すなわち一九四五年六月二十六日に、そのとき国務長官だった元駐日大使のジョゼフ・グルーがスイスに行き、日本のスイス駐在公使と会見し、君主制の存続の保障を告げ、降伏を進める。
 なぜ、このような絵空事を加えることにするのかを弁明したい。
 グルーについて記述した文章を読んで、残念に思うことがしばしばあったからだ。
 日本の多くの研究者がグルーを日本の「封建勢力」の擁護者だと非難し、「民主勢力」の敵だと罵倒した時代があった。グルーが敵味方の犠牲を少なくしたいと願い、一日も早く日本を降伏させようとした努力を嘲笑して、「グルーの執拗なまでの熱心さは異常なほどである」と国際基督教大学教授だった武田清子氏は記述した。

 一方で武田氏は「バーンズ長官の指導下にある国務省の日本の民主化への『鉄の意志』が明らかに読み取れるのである」と綴ることにもなった。そして大統領を説得し、日本の都市に予告なしに原爆を落とすことを決め、グルーの和平への努力、無警告の原爆投下に反対する陸軍長官スティムソン、海軍長官ジェームズ・フォレスタル、ほかのすべての最高幹部の願いと努力を踏みにじった政治家、なによりも日本人を路傍の石ほどにも見ていなかった人物に手放しの感謝を捧げたのである。
 多くの研究者が考えようとしないのは、そのときに大統領だったルーズベルトがグルーを東アジアの外交部門の責任者にしたのはなぜなのかということである。ルーズベルトは無条件降伏の提唱者だと条件反射の反応をしていたのでは、ルーズベルトがなにを恐れていたのか、そしてかれがグルーに期待したことがなんであったのかはわからない。

 私がチューリヒのグルーを書こうとするのは、読者の記憶にグルーを残したいからにほかならない。
 この本のなかで、もうひとつ、日本軍の一号作戦について私は記すことになる。一九四四(昭和十九)年に敢行された中国大陸縦断のその作戦は戦後の東アジア──もちろん、日本をも含めて──計りしれない大きな影響をひろげることになったにんもかかわらず、論者あるいは歴史研究者がだれひとりそれを取り上げていない。その影響をいちはやく感知したからこそ、ルーズベルトはグルーを起用したのである。それを解明しようと思う。
 だが一号作戦を語るなかで、一九四五年の五月から原爆投下までの出来事と直接に関係のない服部卓四郎、そして尾崎秀実に紙面を割きすぎることになるのではないかと私は懸念している。一号作戦、尾崎、服部、「チューリヒのグルー」を読むつもりはないという読者は、9章「なぜかトルーマンはソ連参戦の期日を知りたがる」からお読みを願いたい。


鳥居民
一九二九年、東京生まれ。横浜に育つ。日本および中国近現代史研究家。夥しい資料を渉猟し、徹底した調査、考察をもとに独自の史観を展開。著書に、中国の行動原理を解明した古典的名著『毛沢東 五つの戦争』、経済開放への道を予言した『周恩来と毛沢東』、敗戦の年の一年間の動きを重層的に描く『昭和二十年』(第一期全十四巻、既刊十一巻)、開港から関東大震災までの横浜をテーマとした『横浜山手』『横浜富貴楼 お倉』がある。また、二〇〇四年に上梓した『「反日」で生きのびる中国』では、九五年から始まった江沢民国家主席による「愛国主義教育キャンペーン」の狙いを、毛沢東、トウ小平がおこなってきた統治手法に比して考究。反日デモで現実化した恐ろしい事態を正確に予測した。その分析は、日本における対中認識の一つの趨勢をつくった。