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立ち読みコーナー
ふたりの夫からの贈りもの
長岡輝子
 妙にさびしそうだった自決前の三島由紀夫

 「ガラスの動物園」は本公演を終えてから三十カ所を上回る地方公演があった。出演者はたったの四人だが、強行軍の旅が長くなると、一人ひとりの俳優の演技に不純物が交じらないように気をつけることで神経がすりへってくる。どんな声も動作も、その人物の内面と直結させる努力を片時も忘れてはならないからだ。俳優というものは、いかにうまく化けてみせるかということが通念になっている世界とは、まったく逆な行き方をしなければならない。毎晩かわる観客を前に、今夜こそ、今夜こそ舞台の上で本気で生きることによって、人間の美しさ、悲しさ、おかしさ、みにくさを歌いあげるのが俳優の仕事だと思うが、それは日常生活をいかに生きるかに深くかかわっている。私はうまい俳優になりたいと思ったことはないが、人を感動させることのできる俳優になりたいと思いつづけてきた。しかし近ごろは、一番美しく聖書の朗読のできる俳優になることが目標になってきた。私が演劇をやめたらマッコーが悲しむだろうと思うことが私を今日まで新劇の世界にとどまらせたのだが、これからは自分自身がどのように進むべきかを考えさせられるたびでもあった。
 旅公演も終りに近い十二月十三日、岩田豊雄先生の訃報が届いた。一時は文学座にそっぽを向かれていた先生も、このころはニコニコしながら文学座の芝居を見にいらしていたが、それは突然の逝去だった。先生を最後に、文学座の産みの親三人がこの世から姿を消してしまわれた。
 昭和四十五年八月、俳優座劇場プロデュースでスイスの劇作家デュレンマットの喜劇「メテオール」に出演した。演出はスイスの著名な演出家レオポルド・リンドベルグ氏(チューリッヒ劇場総監督)で、いろいろと考えさせられることが多く、楽しかった。出演者はいくつかの劇団から集められ、主役の芥川比呂志とは分裂以来、初めての共演だった。
 芥川さんは何度も死から甦る奇跡を起し、そのたびに周囲を混乱に陥らせるノーベル賞作家の役で、私は彼の義母マダム・ノムゼンの役だったが、このような思想的な喜劇が日本に寝づくのはいつの日かと改めて痛感するような芝居だった。リンドベルグさんの演出はかゆいところに手がとどくようにわかり、彼が実際に演技をすると、不明なところはなくなり、まさに喜劇となるのだが、頭でわかっても体で表現できるところまで理解するのには、あと百年はかかるのではないか。つまり明治以来の現象面での西欧化が百年たった今、ますます雑居文化をほしいままにしている現状から見て、そう思わないわけにはいかなかった。森鴎外や内村鑑三や岡倉天心や新渡戸稲造などの明治人の持つバックボーンなしで、外国の作品に立ち向かわなければならない進撃俳優のみじめさは、肉体を使って表現しなければならない宿命を持っているだけに痛切だと思う。
 そしてこの年の十一月二十五日、三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊本部で割腹自刃するという異常な事件が起った。
 その前年の夏、出先で偶然、三島さんに会って一緒の車で帰ったことがある。そのとき私が、「あなたはもう本当に芝居は書かないの?」
 と聞くと、
 「「今はもう書く気しないよ、昔は楽しかったね」
 と妙に淋しそうだった。
 文学座をやめてからの三島さんは目に見えて右翼に傾いていった。映画の「憂国」が封切られて間もなく、私は例によって三島さんのご両親の茶の間の仲間としておしゃべりに加わっていると、外出先から帰った彼が顔を出すのだったが、話が「憂国」になると、
 「長岡さん、あの映画、見た?」
 「見たわ」
 「どうだった?」
 「いやあね、どうしてあんなことするの?」
 「アハハハハ。あのとき、お腹を切ると出てくるはらわた、見た?」
 「私、あんなところ目をつぶって見なかったわ」
 「あのはらわたね、お魚のはたわたよ、アハハハハ」
 こんな会話を交したことを覚えている。
 彼の作品を私が演出していたころを懐かしんで、
 「あのころが一番楽しかったね。それにしても、どうして文学座は近ごろ、つまらないものばかり演るの?」
 と不服そうな顔をしたりした。しばらく会わないでいると、父上から、
 「公威が長岡さんに会いたいなあと言ってましたよ」
 とうかがうたびに、私もお会いしたいとは思うものの、楯の会なんてはじまったので、なんだかとっつきにくい気もしていた。
 三島さんがあんなことになったとき、ご両親は思いのほかしっかりなさっていて取り乱したりはなさらなかった。私だったらと思うと、とても考えられないことだ。母堂は、
 「公威さんは、原稿を書いていると自分でも想ってもみなかったことを書いてることがあるんだよ。誰かが乗り移ったようで……なんて言ってましたよ」
 と話されたこともあった。
 私は孫が生れたとき、何年か先、この子が命を捨ててもいいと思うものにめぐりあえるようにと願った。ところが、この事件にぶつかって、私のその考え方がゆらいでしまうのだった。死ぬことは生きる以上にむずかしい。


長岡輝子
明治四十一(一九〇八)年、盛岡市生まれ。東洋英和女学校をへて渡仏。帰国後の昭和六年、演出家の金杉惇郎と劇団テアトル。コメディを結成。翌年、金杉と結婚。金杉の死後、文学座に入り、演出家・女優として活躍。昭和十九年、実業家の篠原玄と再婚。戦後は舞台、映画、テレビに幅広く出演。昭和三十九年、ウェスカー「大麦入りのチキンスープ」で芸術祭文部大臣賞、四十五年、デュレンマット「メオテール」で紀伊國屋演劇賞を受賞。四十六年、文学座退座後は「長岡輝子の会」をはじめ、多彩な活動をつづける。勲四等瑞宝章、NHK放送文化賞を受ける。