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立ち読みコーナー
ウランバートル捕虜収容病院
山邊慎吾
敗戦=南満州よりソ蒙国境へ

昭和二十年八月九日午前一時 一六〇万のソ連軍は満州国へ侵攻を会し。総指揮者は極東軍司令官ワシレフスキー元帥。
阿南陸相訓辞。「ソ連遂に皇国に寇す。名分いかに粉飾すと雖も大東亜を侵略制覇せんとする野望歴然たり。断固神州護持の聖戦を戦い抜かんのみ……」
 八月十二日 関東軍司令部及び満州国政府は通化に移動。
 八月十五日 終戦。
 八月十六日 満州国皇帝溥儀奉天飛行場で捕らえられ、ソ連に抑留さる。
 八月十七日 竹田宮が天皇の命を受けて満州に飛び、関東軍に終戦の善処を勧告訓諭。
 居留氏の混乱、苦難は筆舌に尽くし難し。軍も混乱の中、八月末武装解除を完了す。

 われわれ日本人捕虜約二〇〇〇名は満州国熱河省承徳を、一九四五年(昭和二十年)九月十五日に出発した。北上を続けて十月二十四日、ソ連国境黒河に到着した。
 すでに孫呉を通過する頃から食料が与えられず、携行食も食べ尽くして、一滴の水、一粒の米も口に入れることなく数日が経ち、黒河駅に降り立った時の飢餓感は頂点に達していた。ここに来るまで、貨車一両に七〇名から八〇名が押し込められ、一カ月も坐り通しであったため、駅に降り立った時は、病み上がりのように歩こうにも足元のおぼつかない者が多かった。それでもわれわれは、駅の近くに水道を見つけると、まず水を一口、いや腹いっぱいつめ込もうと、蛇口に向かって狂気のように走っていった。見る間に長蛇の列ができた。なかには待ちきれずに、駅前の広場に溜まった泥水の氷を割って、水をすくう者もいた。
 夕方になって、やっと食糧の分配があり、腹を満たして人心地もついた時には、帰還第一陣は早くも新潟に上陸したという噂が伝わってきた。われわれは喜びを分かち合った。ここ駅前の広場からは見えないが、北方のすぐ近くには黒龍江が流れている。河の向こうはいうまでもなくソ連領ブラゴベシチェンスクだ。そこからシベリア鉄道を東へ進み、ハバロフスクから南下、ウラジォストックに至ればそこはもう日本海だ。その夜は零下十数度の寒風の中を、天幕もないまま駅前広場で露営したが、それでも帰国の期待感から皆の表情は明るかった。
 翌日、われわれは黒河の西北方の丘の上の宿舎に移動した。そこからは黒龍江の黒い流れを見下ろすことができた。河の向こうにはブラゴベシチェンスクの家々が不気味なほどにひっそりとたたずんでいた。宿舎にはすでにいくつかの部隊が泊まった形跡があった。
 月が変わって十一月三日、入浴と消毒を終えて、朝早く黒龍江河岸に整列した。われわれは心身ともに震えていた。新潟上陸の喜びがわずか二日にして消え失せていたからだった。小中蒙古語通訳から確かな情報として帰化されたのは、日本上陸どころか、モスクワ方面に送られるということだった。暗い雲が低く速く南に走り、シベリアからの風は、身を切るような寒気をはらんで、正面から吹きつけていた。
 左手に仮橋がかけられ、ソ連兵が点々と立哨している中を二輪の一頭立ての馬車が数十台、空のままでその仮橋を渡り、黒河の町に軽快に入ってきた。乗っているソ連兵は皆若い。
 いよいよ出発である。「赤い夕陽の満州」と永久に訣別することを思う時、私は揺れる橋を渡りながら、郷愁と未練を背後に覚えた。
 左前方の、上部を削り取ったような丘陵のかげに、要塞が隠されているようであった。今や日ソの対立は解消され、その証しのようにわれわれが囚われの身となって続々と黒龍江を渡っている。その黒龍江は、日本人の複雑な心境を無視するように、氷塊を黒い水に浮かべながら、いとも悠々と流れていた。
 流氷による仮橋の破壊を防ぐために、一〇名ほどのソ連兵が、流れてくる大きな氷塊を小銃で撃ち砕く。銃声がこだまするより早く、氷塊から銀色の花が飛び散った。そのソ連兵がわれわれの持っている毛布を奪い取ろうとして、あちこちで小競り合いが起きた。そのまま毛布を取られる者、反抗する者。捕虜を護衛している蒙古兵は困惑した表情で傍観していたが、さすがに下士官はソ連兵につっかかっていって毛布を奪い返した。ソ連兵は苦笑しながら、蒙古兵に雑言を吐いた。
 私は感慨深くシベリアの土に第一歩を踏み入れた。行軍はそのまま続いた。黒河の丘から眺めていた白樺の林が眼の前にあった。やがて赤い屋根、青い屋根の家々が近づいてきた。街に入った。広い道路に面した木造の住宅は窓硝子が破れたままで、陽に褪せたカーテンがそこからはみ出ている。商店のウインドウの硝子には落書きがされ、店内には賞品がなく、白い埃が溜まっていた。何を売る店かわからない。街を行く人々の服装はひどく地味であった。女は一様にひだのないずんぐりした短いスカートに、上は男物の綿衣を着ていた。街の動きと色彩、それらに戦勝国らしいものは何も見当たらなかった。


山邊慎吾
一九二五年広島県生まれ。一九四五年満州国陸軍軍官学校予科卒業(陸士六十期生)。敗戦とともにモンゴルに抑留。モンゴルより復員。