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立ち読みコーナー
日米開戦の謎
鳥居民

はじめに

 日本がアメリカに戦いを挑んだときから、すでに五十年の歳月がたつ。
 この半世紀のあいだ、われわれはさまざまな機会に、なぜ日本はアメリカと戦うことになったのかと考えつづけてきた。
 若き海軍士官の「遺書」を読んだ人は、花と散った若人の死にどのような意味があったのだろうかと思い、なぜこの戦いが起きたのかと考えたはずだ。「リメンバー・パールハーバー」「汚い騙し討ちをしたジャップ!」とアメリカが言っているのを聞いた人は、それは本当のことだろうかと考えたはずだ。他国民に与えた大きな惨禍を忘れてはならないと説く新聞の社説を読んだ人は、なぜ日本はそのようなことをしたのであろうかと考えることになったはずだ。
 この戦争はどうして起きたのか。ほかに選択の道はなかったのだ、やむを得なかったのだ。戦いが終わったあと、多くの人がそう方ってきている。当時の歴史を担った人びとのなかには、そう発言する人は多い。そして歴史研究者、評論家のなかにも、そう主張する人は多い。
 これまで語られた言葉のなかで、もっとも納得させる言葉のひとつは、日本はアメリカに追い詰められ、戦うことになったのだという主張であろう。日本が経済大国となり、アメリカとのあいだに経済摩擦が起き、アメリカの日本にたいする圧力がつづくようになって、この言葉は、だれの耳にも入りやすい所説となっている。
 だが、日本がアメリカに追い詰められたとしても、闘牛士の赤い布に挑発される牛ではないのだから、戦いに勝てないと思ったのなら、戦いに踏み切ったりはしなかったはずである。
 戦いを決意するに先だち、軍の幹部は戦って負けはしないと思っていたのだ。研究者や評論家はそう説いている。ほんとうにそうだったのか。太平洋の戦いでは、アメリカはやがて戦いに倦むことになろうし、ヨーロッパの戦いでは、ドイツが勝つであろうとかれらは予測していた。そこで日本は戦いを決意したというのだ。
 実際の順序は逆であった。ドイツは英本土を攻略するだろう、そしてアメリカは戦意を喪失するだろうと軍の幹部たちが考えたのは、実はかれらが戦うしかないと腹を固めてからのことであった。
 振り返ってみるなら、日本の過去のすべてを断罪し、なにもかも日本が悪かったのだといった主張はいつしか消えてしまい、予言体系としてのマルクス主義のアプローチに頼った解釈も、かぼそい声となってしまっている。ところが、戦うしかない、やむを得なかったのだという認識だけは、戦争開始の前からいまにいたるまでの半世紀のあいだ、消え去ることはない。
 やむを得なかったのか。追い詰められたのか。目に見えない定められた道に沿って進んだのか。私がここで検討したいのは、当然避けねばならなかった戦いを避けることができなかったのはどうしてかということである。
 言うまでもないことだが、歴史をつくったすべての過程、出来事を分析することはできないから、歴史の記述は選択とならざるを得ない。私もごく限られた幾つかの事実を取り上げることになる。総理大臣だった近衛文麿、軍令部総長だった永野修身、内大臣だった木戸幸一を取り上げる。かれらがいずれもアメリカとの戦いに反対であったにもかかわらず、どうして戦いに踏みだしたのかを解明したい。そしてもうひとり、政治家でも、軍人でもなかったが、アメリカと戦うべしと主張した人物を取り上げたい。
 もちろん、歴史の本には、かれらについての叙述が数行、あるいは数ページにわたって書かれている。かれらについての伝記もあれば、たくさんの研究論文もある。だが、私はここでかれらについて、だれも指摘しなかったこと、考察しなかったことを取り上げたい。
 そして次のことをつけ加えておきたい。石田幹之助、あるいはE・H・カーといった歴史家が強調したように、歴史を書くにあたっては想像力が必要であり、人の心を想像力を働かせて理解するように努めなければならない。五十年前、どうしてアメリカとの戦いを避けることができなかったかを考えるにあたっても、もちろん、想像力は必要だということである。


鳥居民
一九二九年、東京生まれ。横浜に育つ。日本および中国近現代史研究家。夥しい資料を渉猟し、徹底した調査、考察をもとに独自の史観を展開。著書に、中国の行動原理を解明した古典的名著『毛沢東 五つの戦争』、経済開放への道を予言した『周恩来と毛沢東』、敗戦の年の一年間の動きを重層的に描く『昭和二十年』(第一期全十四巻、既刊十一巻)、開港から関東大震災までの横浜をテーマとした『横浜山手』『横浜富貴楼 お倉』がある。また、二〇〇四年に上梓した『「反日」で生きのびる中国』では、九五年から始まった江沢民国家主席による「愛国主義教育キャンペーン」の狙いを、毛沢東、トウ小平がおこなってきた統治手法に比して考究。反日デモで現実化した恐ろしい事態を正確に予測した。その分析は、日本における対中認識の一つの趨勢をつくった。