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立ち読みコーナー
日本占領下のジャワ農村の変容
倉沢愛子
序論

 太平洋戦争が一九四一年十二月八日の真珠湾奇襲攻撃によって始まったことは、ほとんどだれもが知っている。しかしその同じ日に、日本軍がマレー半島やフィリピンのルソン島に上陸し、東南アジアにおいても戦闘が開始されたことを知る人は案外少ないようである。少なくとも若い人々の間では、それについての認識が非常に薄いことは、著者はつねづね大学での講義の中で実感させられている。若い世代の人々に、「太平洋戦争は、日本がどこの国を相手に闘った戦争か」とたずねると、圧倒的多数が「アメリカ」とだけ答え、そのほかに「アメリカとイギリス」とか「アメリカと中国」などと答える学生が例年ポツリ、ポツリいるという具合である。太平洋戦争が「日米戦争」としてのみ把握され、もう一つの側面、つまり、イギリス、オランダ、フランスなど東南アジアに植民地をもつヨーロッパの大国をも敵にまわして戦った戦争だという認識が、若い人々の間ではほとんど欠落している。
 日本は開戦後まもなく、イギリスの領有していた香港、シンガポール、マレー、ボルネオ、ビルマ、そしてフランスが領有していたベトナム、ラオス、カンボジア、さらにオランダが領有していた東インド(現在のインドネシア)に軍隊を勧め、その地の植民地政権を倒し、自らが新たな支配者となってこれらの占領地に君臨したのであった。その歴史が意識の中に刻み込まれていないと、たとえば昭和天皇の大葬の儀に際して、なにゆえオランダが王室や政府の要人を派遣することを拒んだのか、というようなことも理解しがたいであろう。
 それではこのような認識の欠如は、いったいどういうところに由来しているのであろうか。ひょっとするとそれは「太平洋戦争」という名称に問題があるのではないだろうかという思いが、年々著者の心の中でふくらんできた。開戦当時、日本帝国政府が名づけたこの戦争の名称は「大東亜」戦争であったが、戦後米軍の占領下で、この名称は膨張主義的イメージが強すぎるということで、廃止された。そしてアメリカで使われていた呼び名、すなわち“Pacific Warm”を翻訳した「太平洋戦争」という名称が公式に使用されるようになった。アメリカからみれば確かにこの戦争は、太平洋をはさんだ、あるいは太平洋地域における戦争であった。しかし、この名称のゆえに、この戦争のもう一方の側面、すなわち、当時「南方」と呼ばれていた東南アジア地域を部隊にして展開された日本の侵略と占領の歴史が遠く後方に押しのけられてしまったような気がするのである。
 戦後世代の者にとってこの戦時期の歴史は、意識的に語り継がれない限り、もはや他人事でしかなくなってしまっている。それでも敗戦直後に生をうけ、いわゆる団塊の世代に属する著者が子供の頃には、周囲に戦場から戻ってきた父親や親戚のおじさん、あるいは近所のおじさんたちがたくさんいて、断片的にせよその体験談を何度か耳にする機会があったものである。しかし、戦争が始まった頃まだゆりかごの中にいた両親たちから生まれた現在の若者たちには、もうそのような自然な機会は与えられていない。しかも残念ながら中・高等学校の教育において、日本の東南アジア占領について学ぶ内容はきわめて少ないのである。著者が、当初英文で書かれたこの著作をあえて和訳し、日本での出版に踏み切ったのは、若い世代の人々に東南味での戦争の歴史を語り継ぎたいという、いくぶん使命感めいた気持ちもあったからである。
 日本軍が、当時オランダ領東インド(日本では略して蘭印とも呼ばれた)と呼ばれていた現在のインドネシアに侵攻し、オランダの植民地政権を倒してこの地を占領したのは一九四二年三月のことであった。その後、終戦にいたるまでの三年五カ月の間、日本軍はこの地に軍政を敷いて現地の住民の統治に当たった。その際、軍事戦略的な都合から、旧オランダ領東インド全域は三地域((1)ジャワ=陸軍第十六軍、(2)スマトラ=陸軍第二十五軍、(3)ボルネオ〈現、カリマンタン〉、セレベス〈現、スラウェシ〉、東インドネシア、ニューギニアを含むその他全域=海軍)に分割され、そのうち首都ジャカルタを含むジャワ島は、単独の支配地域を形成して陸軍第十六軍の軍政下に置かれた。本書が、インドネシア全域ではなく、ジャワ島のみを対象としているのは、そのような分割統治のため全域を一様に語ることは困難だからである。
 日本の南方占領はアジア主義的なイデオロギーに裏打ちされた大東亜共栄圏構想という「大義」を前面に出して、さまざまな意義づけや理由づけがなされていたが、つまるところは日中・日米戦争継続のための資源獲得という、日本の国家的利益の追求から出たものであったと著者は考える。一九三〇年代後半、日本軍の中国への侵略を好ましく思っていなかったアメリカは、対日輸出削減という方法により経済制裁を加えようとした。当時、石油をはじめとする工業用原料の輸入の大半をアメリカに依存していた日本にとって、それは大きな痛手であったが、日本はこの警鐘をほとんど無視し、代替として南方の資源に注目したのであった。当初、貿易という平和的手段で東インド政庁(オランダ植民地政庁)から資源を“買い付ける”可能性を求め、第二次日蘭会商(一九四〇ー四一年)を行ったが、英米と訓でファシズムに対抗する姿勢を示していたオランダの植民地当局は頑として応じず、この交渉は失敗に終わった。会商決裂(一九四一年六月)直後の一九四一年七月に、日本軍の南部フランス領インドシナ進駐が行われていることからみても、この資源獲得という問題が日本の南方政略といかに密接に結びついていたかが明らかである。


倉沢愛子
一九四六年生まれ。一九七〇年東京大学教養学部卒業。一九七九年同大学博士課程修了。一九八八年、コーネル大学でPh.D.を取得。この間のべ三年間二回にわたってジャワの農村等でフィールドワークに従事。専攻/インドネシア現代史。名古屋大学大学院国際開発研究科教授を経て九七年十月より慶應義塾大学経済学部教授。著書として『日本占領下のジャワ農村の変容』(サントリー学芸賞受賞)『二十年目のインドネシア』(共に草思社)のほか共著、論文多数。