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立ち読みコーナー
大佛次郎 敗戦日記
大佛次郎
昭和二十年
 八月十五日

 晴。朝、正午に陛下自ら放送せられると予告。同盟二回書き上京する夏目君に托す。予告せられたる十二時のニュウス、君ケ代の吹奏あり主上親らの大詔放送、次いでポツダムの提議、カイロ会談の諸条件を公表す。台湾も満州も朝鮮も奪われ、暫くなりとも敵軍の本土の支配を許すなり。覚悟しおりしことなるもそこまでの感切なるものあり。世間は全くの不意打のことなりしが如し。人に依りては全く反対のよき放送を期待しありしと夕方豆腐屋篠崎来たりて語る。午後感想を三者連盟の為書く。岡山東取りに来る。興奮はしておらぬつもりだが意想まとまらず筆を擱くやへとへとなり。夕方村田宅を訪ね工場の様子を尋ねる。唖然とせるもの多しと。健ちゃん熱をおして出勤せるもの、長広大佐以下全然知らずにおりしと話す。大佐少将級で何も知らずにおり報道を聞き愕然とせしらし。篠崎を相手に残りいる酒飲む。床に入りてやはり睡れぬなり。未曾有の革命的事件たるのみならず、この屈辱に多血の日本人殊に軍人中の一途の少壮が耐え得るや否やを思う。大部分の者が専門の軍人をも含めて戦争の対極を知らず、自分に与えられし任務のみに目がくらみいるように指導せられ来たりしことにて、まだ勝てると信じおるならば一層事は困難なるらし。特に敵が上陸し来たり軍事施設を接収する場合は如何?
 夜の総理大臣放送も大国民の襟度を保ち世界に信義を失わざるようと繰返す。その冷静な良識よりも現実は荒々しく、軍には未経験のことに属す。阿南陸相責を負い自刃と三時の報道あり。杉山元も自刃したと伝えられしが虚報らし。
 〔山本惣治立ち寄る。〕
 〔市中に入りおりし海軍水兵原隊復員にてトラックで続々立去りおる由。〕
 〔今日出海夕方来たり。放送局に将校現れ十二時前に我々に話させろと強要。放送せしも空襲中にてスウィッチ切れおりしと。〕



 八月十六日
 晴。依然敵数機入り来たり高射砲鳴る。小川真吉が小林秀雄と前後し訪ね来たる。昨日の渋谷駅などプラットフォームの人が新聞をひらいてしんとせしものなりしと。小林も涙が出て困ったと話す。意外のことに唖然とせしは全般だったようである。篠崎が来て材木座に海軍機が来て海軍航空隊司令の名で大詔は重臣の強要せしものにて海軍航空隊は降服せずあくまでたたかう旨のビラを撒きしと。東京市中はひっそりしていると云うが不穏のもの動きいるなり。午後、明日伴、田島来たる。社では一堂に会し大詔を聞き泣く者多かりしと。朝日は玄関の大戸を閉めているそうである。亀田氏が東京の帰りに寄り、鈴木首相の家が憲兵に焼かれたと伝える。なお参謀本部で割腹する者続出すと云う由なれど真相は知り難し。朝鮮人の乱暴食料奪取の危機などに人は怯えいるらし。夜おそく村田来たり医者が診察に来ての話に、米軍は明日あたり上陸(それも鎌倉に)するらしく女子供を避難させる要ありと話して帰りたるがと意見を問われる。工場に来ている巡査もデマがとめどもなく飛び処置なしと語りし由。岸君来たり木戸内相と平沼の居宅軍人に放火せられ、近衛の師団長は参謀に斬られた旨知らせくれる。〔後記 射殺。参謀本部付の佐官級の者が近衛師団を動かし宮城を抑えんとせしにて、殺害後偽の師団命令を発し計画どおり行動に出でたるも、田中大将に鎮撫せられ首謀者数名は自殺す。〕鈴木貫太郎の家の話しは聞いていないと云う。亀田氏は会社へ来ている者が見て来た話だと云うのである。人心の動揺している様がわかる。市中は平静、靖国神社の前に立ちて泣きいる学徒が多いと云う。悲痛のことである。依然として真実は新聞にもラジオにも現れず、東京で撒かれしビラには軍隊を失いて天皇の大権なしとし、重臣の攻撃と特攻機はなおあり原子爆弾はさして効果ないと云う条項を書きつらねしものもありしと。これは海軍以外から出たものらしい。ビラはともに紙質粗悪で乱暴に書いたガリ版だそうである。別に千葉の部隊が不穏と云う話もある。どれも多少は事実であろう。ショックの為興奮しているのだ。つたえ母子、卵を持ち来たる。戦車が連続して通る為にバス動かず三時間立って待ったと。どの方角へ行ったと聞くと逗子の方へ出て行くのだったと。また海軍機工学校の校長が室を閉じて姿を見せず自殺したものと中将少将などの偉い人が泣いていたと話す。各地とも冷静さを失っているのである。しかし一般は反戦的な底流がまぎらし切れぬ。現実の問題として軍の戦力を最早国民は信用していない。事があったとしても小暴動で、続くわけがない。ただ外地、特に支那大陸の状況が危まれる。しかしこれは現地補給の方針だった食料が続かぬ状態にあるので何が出来ようか。南方のことは全く不明。鈴木内閣の辞職に次ぎ東久邇宮に大命降下と三時放送、岸君の話では緒方氏が幹長、事実上は緒方内閣とならんと。緒方氏は近来非常に積極的な気風になっており、宮はまたミョウピン事件来乗り出す希望を持っておられたと云う。ラジオはこの際妄動して世界に信義を失ってはならぬと毎時繰返している。大宮あたりの工場は工員の解雇を初めたと云う。国民義勇隊を陣地構築に動員することも廃止、女子学徒の徴用もやめ、朝日新聞では女たちのやめたい者をやめさせる方針だと。男子工員も帰りたがっている。作業は停止されている。田島宅へ来た少年工員は電熱器が欲しければ幾らでも持って来てあげます(工場から)どうせ米軍が来たら取られるのだからと話していたそうである。徴用解除には社長の承認と警視庁の許可が要るのだがその手続も無視されている。東京でも横浜でも米の特配があった。これも米軍に渡る前に分散し各戸に保有させるのだと云う説。


大佛次郎
一八九七年横浜に生まれる。本名は野尻清彦。東京帝国大学政治学科を卒業の後、鎌倉に住み、外務省に勤務するが、関東大震災を機に文筆生活に入る。博文館の雑誌「ポケット」に『鞍馬天狗』のシリーズを連載。さらに、『照る日くもる日』『赤穂浪士』など新聞小説でで新境地を打ち出す。三〇年には軍部を批判したノンフィクション作品『ドレフュス事件』を刊行。敗戦直後の九月からは約二か月、東久邇内閣の参与をつとめた。この日記の執筆中には朝日新聞に時代小説『乞食大将』を連載している。その後『帰郷』『宗方姉妹』などの現代小説を執筆。晩年は『パリ燃ゆ』『天皇の世紀』などの史伝に力を注いだ。七三年死去。