www.soshisha.com
立ち読みコーナー
アメリカはなぜ日本に原爆を投下したのか
ロナルド・タカキ / 山岡洋一 訳

広島──恐怖の時代の幕開け

 ダグラス・マッカーサー元帥は西南太平洋方面の連合軍総司令官であったが、広島に原爆を投下するにあたって、意見を求められていない。それどころか、エノラ・ゲイが歴史的な任務を与えられて飛び立つわずか四十八時間前に、決定を知らされただけであった。
 軍事的に見れば、原爆投下は「まったく不必要だ」とマッカーサー将軍は考えていた。日本は敗戦をほぼ認めているとみていたのだ。七月、日本が降伏についてのアメリカとの交渉を仲介するようソ連に依頼した事実を知って、将軍は参謀に命じた。「思ったとおりだ。戦争は終わりだ。オリンピックとコロネット〔どちらも本土上陸作戦の暗号名〕の態勢は変えないが、そのための仕事はすべて中断して、占領の準備に全力をあげろ」。マニラの総司令部で将軍の参謀のひとりだったホレス・A・トンプソン・ジュニアが回想している。「今日こそは日本が降伏するのではないかと、毎日のように期待していたが、八月五日になってワシントンから命令がとどき、八月六日にはすべての航空機を目標周辺から遠ざけるようにいわれた」。広島に原爆が投下されたのち、「将軍は激怒した」という。
 第二次大戦中、マッカーサー将軍付きのパイロットであったW・E・ローズは、この直後に将軍が「ふさぎ込んでいた」と回想している。将軍は「衝撃を受けて」いたようだった。「社会全体の構造、世界の今後のありかたが完全に変わったことを見抜いていた。歴史の転換点になるとみていた」
 きわめて重大な出来事であったのは確かだ。しかし、マッカーサー将軍は、アメリカが原爆を投下した理由をはっきりと理解していたわけではなかった。
 最近、タイム誌のランス・モローが原爆投下の理由を説明している(タイム誌、一九九四年九月十九日号)。「タイム・マシン」に乗って過去を旅することができるなら、原爆で広島が破壊された背景に、「まったくもっともな」理由があったことを理解できるだろう。「出来事はそれを取り巻く状況から切り離す」ことはできず、一九四五年には、「あれだけの被害を与えなければ、日本の軍国主義体制を打ち倒すことはできなかっただろう」。つまり、アメリカが広島に原爆を落としたのは、戦争を「ほぼ即座に」終わらせ、血みどろの本土上陸作戦で日本人、アメリカ人に大量の犠牲者をだすのを避けるためであったという。
 しかし、モローの見方は事実に裏付けられたものではない。事実をすべて知ることはできないとしても、いまでは、原爆が投下された理由をあきらかにする資料がかなり公表されている。最近になって機密扱いを解かれた軍の書類には、一九四五年六月十五日付けの統合参謀本部あての報告書のように、きわめて重要なものがある。それ以外にも、ヘンリー・スティムソン陸軍長官、大統領付き参謀長のウィリアム・レーヒ提督らの主要な側近の日記がある。ジェームズ・バーンズ国務長官、原爆開発を指揮したマンハッタン管区の司令官、レスリー・グローブズ少将らの主要な政策責任者の回顧録がある。ドワイト・D・アイゼンハワー将軍、ダグラス・マッカーサー将軍らの軍の指導者の回顧録と文書もある。J・ロバート・オッペンハイマー、レオ・シラードらの原子科学者のファイルもある。もっと重要な資料として、ハリー・トルーマン大統領の文書があり、これには妻、妹、母親にあてた手紙のほか、一九七九年トルーマンの死後七年たって「発見」された秘密のポツダム日記がある。
 これらの資料によって、原爆が投下された理由をもっと幅広い観点から、もっと正確に理解できるようになった。しかし、こうした資料から事実をどのように組み立て、どのように解釈すべきなのであろうか。
 ひとつの方法は、広島の問題を、これまでとはちがった角度からとらえることである。原爆の投下という歴史のドラマについて、これまでとはちがった角度からとらえることである。原爆の投下という歴史のドラマについて、これまではトルーマン大統領、バーンズ国務長官らの登場人物による説明が受け入れられてきた。しかし、ひとりの人物がおなじ出来事について語った内容にすら、時期や相手によって説明に違いがあることがあきらかになっている。出来事が起こった直後の手紙に、事態の説明が書かれていることが少なくない。なかには日記をつけている人物もいて、その日に起こったことについて、独白を記していることがある。この例としては、スティムソン陸軍長官、トルーマン大統領らの日記があげられる。
 回想として書かれたものもある。スティムソン陸軍長官がのちにハーパーズ誌に原爆投下の理由を書いた記事、トルーマンの『トルーマン回顧録』(堀江芳孝訳、恒文社)、バーンズ国務長官の『率直に語る』、グローブズ将軍の『私が原爆計画を指揮した』(富永・実松訳、恒文社)が代表的なものだ。こうした回顧録は戦後になって、事実を説明し、将来の世代を教育することを目的として書かれている。
 回顧録のなかには、歴史家にどう読まれるのかを意識して書かれたものもある。レーヒ提督が『私はそこにいた』に書いている。「戦争の歴史という巨大なジグソーパズルを組み立てることになる歴史家にささやかな手助けをしたいと願って、パズルのピースのうちいくつかを扱ったわたしの役割を、個人資料にもとづいてまとめるようにという勧めにしたがうことにした」
 しかし、いまの段階で利用できるパズルのピースを調べ、原爆投下の決定をこれまでとはちがった角度から見直してみると、実際になにが起こったのかと、考え込まざるをえなくなる。