ある兵士の戦場のスケッチ
――蘆溝橋事件直後の北支戦線
戦場で描いた六百枚のスケッチ
「銃声におののく」と記された一枚のスケッチがある。驚きに目を大きく開け、見つめあう中国の子供たち。たがいに手をしっかりと握り、肩を寄せる姿がとても印象的だ。
作者は田口秋魚。平福百穂(明治十年〜昭和八年)の門下で初代角館町立美術館館長(秋田県仙北郡角館町)を務めた日本画家である。
本名は徳蔵。明治三十六(一九〇三)年、角館町上新町に生まれた、角館尋常小学校高等科卒業後、昭和二(一九二七)年から同八年まで平福百穂に師事。昭和十九年から二十八年まで県立角館高等女学校(現角館南高校)で美術講師を勤める。その後、画業に専念し、数多くの作品を残す。五十年から五十八年まで町立美術館館長。六十三年一月二十四日、八十四歳で死去した。秋田県造形美術協会、県日本画協会所属。県芸術文化功労章を受章(昭和四十九年)。
「銃声におののく」は、昭和十二(一九三七)年九月、日中戦争に応召され、一兵士として中国各地を転戦した田口が、十四年一月の帰還まで戦場で描き続けた約六百枚のスケッチの一枚だ。スケッチは、保定、広平(南小留)、渉県、邯鄲などという中国の地名とともに、年月日ごとに、B六判のこげ茶色の封筒十袋に分けて整理されていた。
「ほおずきと黒猫」(昭和二十四年)、「ほたる」(二十七年)、「黄金の鯉」(三十三年)、「駒ヶ岳」(五十一年)など、田口は花や魚、鳥、風景を好んで描いており、人物、肖像画がきわめて少なかったことから花鳥、山水の画家として知られていた。
しかし、没後、新たに見つかった「戦場のスケッチ」はどうだろう。人物画は三分の一にあたる約二百枚。中国の人々、それも子供たちが多いのに気づく。
師の平福百穂は一本の線描で、すべての動きを一瞬のうちにスケッチすることができたという。それに比べると、田口のスケッチは決してうまいとはいえない。迷いがあるのか、スケッチには何本も線が重ねられている。だが、描かれた人々の顔はとても温かい。風景画を描いていても、そこには必ず中国の人々がいて、その生活がうかがえる。人々の豊かな表情が、ほっとするような柔らかな感じをスケッチに与えている。
そして、それぞれのスケッチの端や裏には、彼の走り書きがあった。
「野鳥(烏の群棲地なり)、朝夕、天暗くなるほどの飛翔大群なり。(中略)日本軍大敗。南小留。恨悔秋田隊。戦友よ、霊よ、郷里に帰れ。/昭和十二年十一月十九日、南小留」
「この凹道と濠塵煙中に落伍することもできない。神、仏。自力以外に進む方法はない。みんなそれぞれに必死である。/昭和十三年二月十六日、渉県東門付近」
「戦争後、実際に支那の民家が密集しているのを見たことがない。それは生々しい戦いで、村という村はどこも戦場になっているからだ(同前)」
「私は弱兵、とても戦列に加わる勇気はなく落伍してしまった。勇気を出せと言われても、もう何もできず、このままここに残してくれと戦友に頼んだ。『野ざらしになることは覚悟だ』とごねる。
戦友は何も言わず、身回り品を持ってくれた。ぐいぐい手を引っ張られ、あえぎあえぎ難所を登る。/昭和十三年七月二十一日、横嶺関」
角館町は秋田県仙北郡の中央部に位置する人口一万五千五百三十人(平成七年現在)、商業と農林業の町である。表町、東勝楽丁、裏町にわたる約六・九ヘクタールの区域は「武家屋敷町並み」として昭和五十一年、国選定の重要伝統的建造物群保存地区となった。近世、芦名氏の領有を経て佐竹北家の城下町として発展、武家屋敷の沿道には黒板塀が続き、それぞれの屋敷前庭には枝垂桜、樅の並木が見える。
今なお旧藩時代の景観と環境がそのままに残り、「みちのく小京都」ともいわれる武家屋敷通りを歩くと、平賀源内(享保十三〜安永八年)から洋画法を学び、秋田蘭画を生み出した秋田藩士角館城代の家臣小田野直武(寛延二〜安永九年)、そして直武の蘭画を奨励し、みずからも絵筆をとった秋田藩主佐竹義敦(号曙山 寛延一〜天明五年)、同藩角館城代佐竹義躬(寛延二〜寛延十二年)など、二百年前に新しい絵画の創造に燃えた画人たちの息遣いが聞こえてくるようだ。
スケッチ「銃声におののく」の作者、日本画家田口秋魚は、そんな町に生まれた。同町田町の自宅には今、妻煕子だけが住んでいるが、生前、田口は自宅の庭の手入れを決して欠かさなかった。
秋魚が一日中、草気やそれに集う蝶、鳥たちのスケッチしていたと煕子がいう、その思い出の庭は、私が初めて訪れた平成四年の夏、すっかり雑草に覆われていた。
「私一人だし、足の具合が悪いもんだから、手入れもよいでねくて(大変で)。せっかくの庭も荒れ放題だす。夫さ申し訳ねぇすな」
松葉づえをつきながら、玄関まで出迎えてくれた煕子は笑った。
案内された家には、そのすみずみに田口の“匂い”が染み込んでいた。飄々とした田口の写真、彼が大好きだったという田沢湖の絵が何枚か部屋の中にある。淡い色のせいか、田口が描く田沢湖は、より神秘性を増し、はかなく繊細に感じられた。煕子の声が薄路から続く。
「大部分の絵は手放して、あまり残ってねぇすもの。思い出が一つずつ消えで失ぐなるようで寂しども」
お気に入りの庭が見渡せる二階のアトリエ。「戦場のスケッチ」はその押し入れの奥の木箱にひっそりとしまってあった。田口の死後五年たった平成四年六月一日から七月二十八日までの約二ヶ月間、角館町平福美術館で「没五年田口秋魚展」が開かれることになった。その準備のため、煕子が遺品を整理していて偶然見つけたのだという、煕子をはじめ、周囲のだれもがこれまで見たことのないスケッチだった。
「結婚したのは昭和二十一年。夫が中国から帰還してからだす。生前、私さ戦争当時の放しをしたことは一度もねがったし、聞いても話してけねがった。夫の没後五年展が開かれるのを機に遺品の整理をしてだっけ、たくさんのスケッチが出てきた。その中さ、めんこい中国の子供達が描かれてたんだす。ただ、とても不思議だと思ったのは、戦後、田口はどんたに人がら肖像画、人物画を依頼されても決して描くことはねがったのに、スケッチには人物が多がったごど。私のまったく知らね夫の一面を見るようだったす」
と煕子は話す。
日中戦争当時に描いたと思われるスケッチが見つかった。そしてその多くは人物のスケッチだった。しかし、田口は中国から帰還後、人物画をほとんど描かなかったという。
田口はなぜ、人物画を描かなくなったのか。そして、それは「妻にも話さなかった戦争体験」とどうかかわってくるのか。彼が戦場で見聞きしたもの、彼の心に深く強い衝撃を与えたものは何だったのだろう。
東北地方の小さな城下町角館を愛し、そこで静かに一生を終えた日本画家田口秋魚。彼が残した、たくさんのスケッチ。私はそれを手にしながら、半世紀前、彼が歩んだ戦場への道、その足跡をたどってみようと思った。
「銃声におののく」と記された一枚のスケッチがある。驚きに目を大きく開け、見つめあう中国の子供たち。たがいに手をしっかりと握り、肩を寄せる姿がとても印象的だ。
作者は田口秋魚。平福百穂(明治十年〜昭和八年)の門下で初代角館町立美術館館長(秋田県仙北郡角館町)を務めた日本画家である。
本名は徳蔵。明治三十六(一九〇三)年、角館町上新町に生まれた、角館尋常小学校高等科卒業後、昭和二(一九二七)年から同八年まで平福百穂に師事。昭和十九年から二十八年まで県立角館高等女学校(現角館南高校)で美術講師を勤める。その後、画業に専念し、数多くの作品を残す。五十年から五十八年まで町立美術館館長。六十三年一月二十四日、八十四歳で死去した。秋田県造形美術協会、県日本画協会所属。県芸術文化功労章を受章(昭和四十九年)。
「銃声におののく」は、昭和十二(一九三七)年九月、日中戦争に応召され、一兵士として中国各地を転戦した田口が、十四年一月の帰還まで戦場で描き続けた約六百枚のスケッチの一枚だ。スケッチは、保定、広平(南小留)、渉県、邯鄲などという中国の地名とともに、年月日ごとに、B六判のこげ茶色の封筒十袋に分けて整理されていた。
「ほおずきと黒猫」(昭和二十四年)、「ほたる」(二十七年)、「黄金の鯉」(三十三年)、「駒ヶ岳」(五十一年)など、田口は花や魚、鳥、風景を好んで描いており、人物、肖像画がきわめて少なかったことから花鳥、山水の画家として知られていた。
しかし、没後、新たに見つかった「戦場のスケッチ」はどうだろう。人物画は三分の一にあたる約二百枚。中国の人々、それも子供たちが多いのに気づく。
師の平福百穂は一本の線描で、すべての動きを一瞬のうちにスケッチすることができたという。それに比べると、田口のスケッチは決してうまいとはいえない。迷いがあるのか、スケッチには何本も線が重ねられている。だが、描かれた人々の顔はとても温かい。風景画を描いていても、そこには必ず中国の人々がいて、その生活がうかがえる。人々の豊かな表情が、ほっとするような柔らかな感じをスケッチに与えている。
そして、それぞれのスケッチの端や裏には、彼の走り書きがあった。
「野鳥(烏の群棲地なり)、朝夕、天暗くなるほどの飛翔大群なり。(中略)日本軍大敗。南小留。恨悔秋田隊。戦友よ、霊よ、郷里に帰れ。/昭和十二年十一月十九日、南小留」
「この凹道と濠塵煙中に落伍することもできない。神、仏。自力以外に進む方法はない。みんなそれぞれに必死である。/昭和十三年二月十六日、渉県東門付近」
「戦争後、実際に支那の民家が密集しているのを見たことがない。それは生々しい戦いで、村という村はどこも戦場になっているからだ(同前)」
「私は弱兵、とても戦列に加わる勇気はなく落伍してしまった。勇気を出せと言われても、もう何もできず、このままここに残してくれと戦友に頼んだ。『野ざらしになることは覚悟だ』とごねる。
戦友は何も言わず、身回り品を持ってくれた。ぐいぐい手を引っ張られ、あえぎあえぎ難所を登る。/昭和十三年七月二十一日、横嶺関」
角館町は秋田県仙北郡の中央部に位置する人口一万五千五百三十人(平成七年現在)、商業と農林業の町である。表町、東勝楽丁、裏町にわたる約六・九ヘクタールの区域は「武家屋敷町並み」として昭和五十一年、国選定の重要伝統的建造物群保存地区となった。近世、芦名氏の領有を経て佐竹北家の城下町として発展、武家屋敷の沿道には黒板塀が続き、それぞれの屋敷前庭には枝垂桜、樅の並木が見える。
今なお旧藩時代の景観と環境がそのままに残り、「みちのく小京都」ともいわれる武家屋敷通りを歩くと、平賀源内(享保十三〜安永八年)から洋画法を学び、秋田蘭画を生み出した秋田藩士角館城代の家臣小田野直武(寛延二〜安永九年)、そして直武の蘭画を奨励し、みずからも絵筆をとった秋田藩主佐竹義敦(号曙山 寛延一〜天明五年)、同藩角館城代佐竹義躬(寛延二〜寛延十二年)など、二百年前に新しい絵画の創造に燃えた画人たちの息遣いが聞こえてくるようだ。
スケッチ「銃声におののく」の作者、日本画家田口秋魚は、そんな町に生まれた。同町田町の自宅には今、妻煕子だけが住んでいるが、生前、田口は自宅の庭の手入れを決して欠かさなかった。
秋魚が一日中、草気やそれに集う蝶、鳥たちのスケッチしていたと煕子がいう、その思い出の庭は、私が初めて訪れた平成四年の夏、すっかり雑草に覆われていた。
「私一人だし、足の具合が悪いもんだから、手入れもよいでねくて(大変で)。せっかくの庭も荒れ放題だす。夫さ申し訳ねぇすな」
松葉づえをつきながら、玄関まで出迎えてくれた煕子は笑った。
案内された家には、そのすみずみに田口の“匂い”が染み込んでいた。飄々とした田口の写真、彼が大好きだったという田沢湖の絵が何枚か部屋の中にある。淡い色のせいか、田口が描く田沢湖は、より神秘性を増し、はかなく繊細に感じられた。煕子の声が薄路から続く。
「大部分の絵は手放して、あまり残ってねぇすもの。思い出が一つずつ消えで失ぐなるようで寂しども」
お気に入りの庭が見渡せる二階のアトリエ。「戦場のスケッチ」はその押し入れの奥の木箱にひっそりとしまってあった。田口の死後五年たった平成四年六月一日から七月二十八日までの約二ヶ月間、角館町平福美術館で「没五年田口秋魚展」が開かれることになった。その準備のため、煕子が遺品を整理していて偶然見つけたのだという、煕子をはじめ、周囲のだれもがこれまで見たことのないスケッチだった。
「結婚したのは昭和二十一年。夫が中国から帰還してからだす。生前、私さ戦争当時の放しをしたことは一度もねがったし、聞いても話してけねがった。夫の没後五年展が開かれるのを機に遺品の整理をしてだっけ、たくさんのスケッチが出てきた。その中さ、めんこい中国の子供達が描かれてたんだす。ただ、とても不思議だと思ったのは、戦後、田口はどんたに人がら肖像画、人物画を依頼されても決して描くことはねがったのに、スケッチには人物が多がったごど。私のまったく知らね夫の一面を見るようだったす」
と煕子は話す。
日中戦争当時に描いたと思われるスケッチが見つかった。そしてその多くは人物のスケッチだった。しかし、田口は中国から帰還後、人物画をほとんど描かなかったという。
田口はなぜ、人物画を描かなくなったのか。そして、それは「妻にも話さなかった戦争体験」とどうかかわってくるのか。彼が戦場で見聞きしたもの、彼の心に深く強い衝撃を与えたものは何だったのだろう。
東北地方の小さな城下町角館を愛し、そこで静かに一生を終えた日本画家田口秋魚。彼が残した、たくさんのスケッチ。私はそれを手にしながら、半世紀前、彼が歩んだ戦場への道、その足跡をたどってみようと思った。