米軍が記録したガダルカナルの戦い
あとがき
本書に紹介した「ある将校のガ島日記」の中で、執筆者の亀岡高夫中尉は、昭和十七年十二月八日に、次のようにガダルカナル戦の感想を記している。周知のようにこの年の「十二月八日」は、日本の連合艦隊がハワイ真珠湾の米太平洋艦隊を奇襲攻撃してちょうど一年目の“記念日”だった。
「十二月八日 大詔奉戴日の第一周年記念日である。回顧すれば、まる一年前、千葉県習志野で迎えた感激のこの日、相次ぐ勝報にどんなにか心躍らせたことか。
それなのに一年後の本日の有様はどうだ。わずかばかりの米軍をガ島から駆逐できず、その日その日の食事にもこと欠く状態、思えば思うほど遺憾である。十二月八日までには、どうしても陥らせるぞと出かけてきて、今ここに敵砲と敵機のなすがままに任されて、壕の中にもぐり込んでいる状態は、泣くに泣けず、口惜しいことこの上なしである。
思うに、軍参謀の無謀きわまりない作戦計画のほかには、この敗戦の原因は何もない。もし軍参謀が真の成人だというのならば腹を切って天皇陛下の前におわびすべし。──」
この一文が戦後に書かれた回想記の類いなら〈当然のこと〉と、誰しも思うであろう。だが、これはガ島戦の真っ最中に書かれた日記の一節なのである。当時、亀岡中尉は機関銃中隊の中隊長だったから、いってみれば下級将校の一人にすぎない。その下級将校が、はるか上級機関の軍司令部(ここでは第十七軍司令部)の参謀を堂々と無能呼ばわりしているのだ。もし何等かの表紙に、現地ガ島で日記の内容が表面化したならば、当時の日本軍のことだから「抗命罪だ」などといって処分しかねない内容である。
だが、亀岡中尉の「日記」は、ガ島戦における日本軍指導部のありようと、ジャングルの壕の中に身を屈めて飢えと病気に苦しんでいる兵士たちの心情を見事に衝いてはいまいか。
いま写真集の編集を終え、私には、ガダルカナル島をめぐる日米の攻防戦で、日本軍には作戦計画や戦術と呼べるようなものはなかったように思えてならない。ただただ場当たり的に兵力を次々送り込み、そのたびに一方的に打ち破られていった。それがガ島戦であったと。
日本の軍部には「情報」というものを軽視してきた歴史がある。明治の建軍以来、日本軍が中国大陸を戦場にして戦ってきた相手は中国であり、ロシアであった。そして日本軍はつねに勝利をおさめ、軍事大国にのしあがってきた。
日本が本格的な大戦争に臨んだのはロシアとの日露戦争である。ここで日本は戦勝国になったのだが、それは完勝ということではない。必死につかんだ勝利だった。当時、ロシアは国内に革命勢力を抱え、それが日露戦争と並行するかたちで高揚をみていた。日本は明石元二郎大佐などをヨーロッパに潜入させ、ロシアの革命勢力を陰から援助するなど、さまざまな諜報、謀略工作を行っていた。同時に、金子堅太郎を逸早くアメリカに派遣し、ルーズベルト大統領の斡旋による終戦工作にも着手していた。さらに現地の戦場では、いくつもの諜報グループを組織して前線のロシア軍の動静を探り、情報は現地指揮官に直結するかたちで作戦に取り入れられていった。
新興国日本には長期戦を賄う経済力も軍事力もなかったから、政府も軍部も一丸となって海戦と同時に敵国の情報を集め、早期和平の道を探ったのである。日露戦争の勝利は、軍事的勝利もさること、こうした政治・外交、そして情報の勝利でもあったのだ。
だが、米英蘭を敵に回した太平洋戦争(日本では「大東亜戦争」と呼んだ)では、日露戦争で見せた政府と軍部の一致団結も、さまざまな諜報・情報工作の展開も陰をひそめてしまった。そして軍部だけが絶対的権力組織として突出し、大和魂と肉弾攻撃だけが強調されていた。
日露戦争後の日本軍の「敵」は、国内が混乱している中国軍であった。中国軍とはいっても、統一された国軍ではなく、各地方軍閥の集合体といってもいい組織だった。北清事変しかり、満州事変しかり、初期の日中戦争もしかりであった。日本軍は部隊を出撃させさえすれば連戦連勝を重ねられた。敵情の探索などあまり必要なかったのだ。そのためか、つねに敵情を探って有事に備えるという軍事組織としてのイロハを、この連戦連勝の間にすっかり忘れ去っていたのである。
ガダルカナルに陸軍の戦闘部隊を送り込むことを決定したとき、ガ島のまともな地図さえなかったことは有名な話である。また師団の参謀クラスでさえ「ガダルカナル」という島がどこにあるかも知らなかったという証言は数多い。
ニューギニアを攻略し、遠くフィジー、サモアまでも占領しようという日本軍が、その周辺地域の地図さえ準備していなかったというのだから、これは無謀というより無知と表現した方がいいかもしれない。日常的に「情報」を重視していれば、参謀本部はソロモン諸島の地図などいくらでも準備できたはずである。
この地図の一件を見ても分かるように、日本の大本営はガ島の米軍兵力をまったく予測できなかった。太平洋地域の米軍に関する情報をほとんど持っていなかったからだ。だから「せいぜい二〜三千名の強行偵察部隊程度だろう」と勝手に決め込み、一木支隊を急遽派遣して決着をはかろうとした。それで十分と見たのである。そこには戦略とか戦術といった作戦計画は皆無で、ただ敵を侮った傲慢さだけが見え隠れしている。
さらに現地の指揮官も、ただただ「突っ込めー、突っ込めー」の肉弾斬り込みの白兵戦を強いるだけで、作戦といえる計略などはなかった。それは一木支隊に続く川口支隊でも同じであり、大本営から馳せ参じた作戦参謀の指導による第二師団の総攻撃でも変わりはなかった。
ガ島戦は、日本軍の体質と欠点を余すところなく露出した戦いであった。しかし、その体質と欠点はついに是正されることなく、昭和二十年八月十五日の敗戦の日まで貫き通される。そのために命を奪われていった一般兵士の無念と怒りは、どう晴らせばいいのか。
亀岡中尉は「十二月二十日」の日記に、その怒りをこう記している。
「歩兵操典に“困苦欠乏に耐えよ”とあるが、これほどの困苦欠乏がどこにあるというのか。軍司令部は第一線将兵を餓死させる気なのか。一体、第一線のこの悲況を知っているのかどうか」
一般将兵の信頼を失った軍組織はもろい。ガ島戦は、その典型であったと思う。
本書に紹介した「ある将校のガ島日記」の中で、執筆者の亀岡高夫中尉は、昭和十七年十二月八日に、次のようにガダルカナル戦の感想を記している。周知のようにこの年の「十二月八日」は、日本の連合艦隊がハワイ真珠湾の米太平洋艦隊を奇襲攻撃してちょうど一年目の“記念日”だった。
「十二月八日 大詔奉戴日の第一周年記念日である。回顧すれば、まる一年前、千葉県習志野で迎えた感激のこの日、相次ぐ勝報にどんなにか心躍らせたことか。
それなのに一年後の本日の有様はどうだ。わずかばかりの米軍をガ島から駆逐できず、その日その日の食事にもこと欠く状態、思えば思うほど遺憾である。十二月八日までには、どうしても陥らせるぞと出かけてきて、今ここに敵砲と敵機のなすがままに任されて、壕の中にもぐり込んでいる状態は、泣くに泣けず、口惜しいことこの上なしである。
思うに、軍参謀の無謀きわまりない作戦計画のほかには、この敗戦の原因は何もない。もし軍参謀が真の成人だというのならば腹を切って天皇陛下の前におわびすべし。──」
この一文が戦後に書かれた回想記の類いなら〈当然のこと〉と、誰しも思うであろう。だが、これはガ島戦の真っ最中に書かれた日記の一節なのである。当時、亀岡中尉は機関銃中隊の中隊長だったから、いってみれば下級将校の一人にすぎない。その下級将校が、はるか上級機関の軍司令部(ここでは第十七軍司令部)の参謀を堂々と無能呼ばわりしているのだ。もし何等かの表紙に、現地ガ島で日記の内容が表面化したならば、当時の日本軍のことだから「抗命罪だ」などといって処分しかねない内容である。
だが、亀岡中尉の「日記」は、ガ島戦における日本軍指導部のありようと、ジャングルの壕の中に身を屈めて飢えと病気に苦しんでいる兵士たちの心情を見事に衝いてはいまいか。
いま写真集の編集を終え、私には、ガダルカナル島をめぐる日米の攻防戦で、日本軍には作戦計画や戦術と呼べるようなものはなかったように思えてならない。ただただ場当たり的に兵力を次々送り込み、そのたびに一方的に打ち破られていった。それがガ島戦であったと。
日本の軍部には「情報」というものを軽視してきた歴史がある。明治の建軍以来、日本軍が中国大陸を戦場にして戦ってきた相手は中国であり、ロシアであった。そして日本軍はつねに勝利をおさめ、軍事大国にのしあがってきた。
日本が本格的な大戦争に臨んだのはロシアとの日露戦争である。ここで日本は戦勝国になったのだが、それは完勝ということではない。必死につかんだ勝利だった。当時、ロシアは国内に革命勢力を抱え、それが日露戦争と並行するかたちで高揚をみていた。日本は明石元二郎大佐などをヨーロッパに潜入させ、ロシアの革命勢力を陰から援助するなど、さまざまな諜報、謀略工作を行っていた。同時に、金子堅太郎を逸早くアメリカに派遣し、ルーズベルト大統領の斡旋による終戦工作にも着手していた。さらに現地の戦場では、いくつもの諜報グループを組織して前線のロシア軍の動静を探り、情報は現地指揮官に直結するかたちで作戦に取り入れられていった。
新興国日本には長期戦を賄う経済力も軍事力もなかったから、政府も軍部も一丸となって海戦と同時に敵国の情報を集め、早期和平の道を探ったのである。日露戦争の勝利は、軍事的勝利もさること、こうした政治・外交、そして情報の勝利でもあったのだ。
だが、米英蘭を敵に回した太平洋戦争(日本では「大東亜戦争」と呼んだ)では、日露戦争で見せた政府と軍部の一致団結も、さまざまな諜報・情報工作の展開も陰をひそめてしまった。そして軍部だけが絶対的権力組織として突出し、大和魂と肉弾攻撃だけが強調されていた。
日露戦争後の日本軍の「敵」は、国内が混乱している中国軍であった。中国軍とはいっても、統一された国軍ではなく、各地方軍閥の集合体といってもいい組織だった。北清事変しかり、満州事変しかり、初期の日中戦争もしかりであった。日本軍は部隊を出撃させさえすれば連戦連勝を重ねられた。敵情の探索などあまり必要なかったのだ。そのためか、つねに敵情を探って有事に備えるという軍事組織としてのイロハを、この連戦連勝の間にすっかり忘れ去っていたのである。
ガダルカナルに陸軍の戦闘部隊を送り込むことを決定したとき、ガ島のまともな地図さえなかったことは有名な話である。また師団の参謀クラスでさえ「ガダルカナル」という島がどこにあるかも知らなかったという証言は数多い。
ニューギニアを攻略し、遠くフィジー、サモアまでも占領しようという日本軍が、その周辺地域の地図さえ準備していなかったというのだから、これは無謀というより無知と表現した方がいいかもしれない。日常的に「情報」を重視していれば、参謀本部はソロモン諸島の地図などいくらでも準備できたはずである。
この地図の一件を見ても分かるように、日本の大本営はガ島の米軍兵力をまったく予測できなかった。太平洋地域の米軍に関する情報をほとんど持っていなかったからだ。だから「せいぜい二〜三千名の強行偵察部隊程度だろう」と勝手に決め込み、一木支隊を急遽派遣して決着をはかろうとした。それで十分と見たのである。そこには戦略とか戦術といった作戦計画は皆無で、ただ敵を侮った傲慢さだけが見え隠れしている。
さらに現地の指揮官も、ただただ「突っ込めー、突っ込めー」の肉弾斬り込みの白兵戦を強いるだけで、作戦といえる計略などはなかった。それは一木支隊に続く川口支隊でも同じであり、大本営から馳せ参じた作戦参謀の指導による第二師団の総攻撃でも変わりはなかった。
ガ島戦は、日本軍の体質と欠点を余すところなく露出した戦いであった。しかし、その体質と欠点はついに是正されることなく、昭和二十年八月十五日の敗戦の日まで貫き通される。そのために命を奪われていった一般兵士の無念と怒りは、どう晴らせばいいのか。
亀岡中尉は「十二月二十日」の日記に、その怒りをこう記している。
「歩兵操典に“困苦欠乏に耐えよ”とあるが、これほどの困苦欠乏がどこにあるというのか。軍司令部は第一線将兵を餓死させる気なのか。一体、第一線のこの悲況を知っているのかどうか」
一般将兵の信頼を失った軍組織はもろい。ガ島戦は、その典型であったと思う。
一九九五年八月 〈平塚柾緒〉
平塚柾緒
一九三七年、茨城県生まれ。週刊誌・月刊誌の記者、編集者を経て、出版プロダクション(株)文殊社代表。太平洋戦争研究会、近現代史フォトライブラリー主宰。主な著書に『生きている陸軍刑法・敵前逃亡』(共著)『太平洋玉砕戦』『秘蔵写真で知る日露戦争(1)(2)』『秘蔵写真で知る真珠湾攻撃』『図説太平洋戦争』(共著)『米軍が記録した日本空襲』『日米中報道カメラマンの記録・日中戦争』などがある。
一九三七年、茨城県生まれ。週刊誌・月刊誌の記者、編集者を経て、出版プロダクション(株)文殊社代表。太平洋戦争研究会、近現代史フォトライブラリー主宰。主な著書に『生きている陸軍刑法・敵前逃亡』(共著)『太平洋玉砕戦』『秘蔵写真で知る日露戦争(1)(2)』『秘蔵写真で知る真珠湾攻撃』『図説太平洋戦争』(共著)『米軍が記録した日本空襲』『日米中報道カメラマンの記録・日中戦争』などがある。