横浜富貴楼 お倉
――明治の政治を動かした女
横浜市野毛山にある市の中央図書館の五階である。会議室の楕円形のテーブルのまわりには二十人ほどが座っている。窓からは横浜の中心街が見える。ビルのかげに隠れて、海は見えない。北側の窓からはランドマークタワーが見える。
富貴楼のお倉の話をします。
富貴楼は懐石料理屋で、お倉はこの店の女将でした。店は尾上町の五丁目にありました。いまも変わりありません。横浜市中区尾上町五丁目です。尾上町は、桜木町の駅から大江橋を渡り、横浜市役所、横浜スタジアムへ向かう道路の両側の町並みです(明治十年ごろと現在の横浜の地図をそれぞれ表と裏の見返しに掲げましたので参照してください)。
大江橋を渡ってすぐのところ右側に、指路教会があります。この教会の建設に全力を注いだのがヘボン博士です。ヘボン博士は、のちにヘボン式ローマ字といわれる、日本語のローマ字綴りを工夫した人で、明治学院の前進の英和学校をおこしたことでも知られています。指路教会が献堂式をあげたのは明治二十五(一八九二)年の一月ですが、大正十二(一九二三)年の関東大震災でこわれ、現在の教会堂は二代目です。
いまはまわりを高いビルに囲まれてしまっています。ニューヨーク、ロンドン、大都市の教会はどこも同じですが、どこまでもつづく麦畑を車で走っているうちに、はるか遠くにシャトルの大聖堂の鐘塔が見えてくるといった感激は望むべくもありません。しかし当時は、外国船がまっすぐ横浜の港に向かってくれば、最初に指路教会の尖塔が見え、赤煉瓦の教会堂を望むことができたのです。
この教会と道をへだてた十四階建てのビルが神奈川中小企業センターです。
ここからも見えるはずです。左手の上のほうにベイブリッジのH形をした主塔が見えますね。主人の「主」と五重塔の「塔」で「主塔」と呼ぶんだそうです。その右にサッポロビールの看板が見えます。KCという看板も見えます。その右にちょっと背の高い、白っぽい細長いビルが見えるでしょう。あれが中小企業センターです。富貴楼はこのビルのところにありました。現在、道路になっているところにあったのでしょう。JR根岸線の効果の下に掘割があったのですが、お倉の富貴楼はその掘割に面してありました。
富貴楼のお倉の話をします。
富貴楼は懐石料理屋で、お倉はこの店の女将でした。店は尾上町の五丁目にありました。いまも変わりありません。横浜市中区尾上町五丁目です。尾上町は、桜木町の駅から大江橋を渡り、横浜市役所、横浜スタジアムへ向かう道路の両側の町並みです(明治十年ごろと現在の横浜の地図をそれぞれ表と裏の見返しに掲げましたので参照してください)。
大江橋を渡ってすぐのところ右側に、指路教会があります。この教会の建設に全力を注いだのがヘボン博士です。ヘボン博士は、のちにヘボン式ローマ字といわれる、日本語のローマ字綴りを工夫した人で、明治学院の前進の英和学校をおこしたことでも知られています。指路教会が献堂式をあげたのは明治二十五(一八九二)年の一月ですが、大正十二(一九二三)年の関東大震災でこわれ、現在の教会堂は二代目です。
いまはまわりを高いビルに囲まれてしまっています。ニューヨーク、ロンドン、大都市の教会はどこも同じですが、どこまでもつづく麦畑を車で走っているうちに、はるか遠くにシャトルの大聖堂の鐘塔が見えてくるといった感激は望むべくもありません。しかし当時は、外国船がまっすぐ横浜の港に向かってくれば、最初に指路教会の尖塔が見え、赤煉瓦の教会堂を望むことができたのです。
この教会と道をへだてた十四階建てのビルが神奈川中小企業センターです。
ここからも見えるはずです。左手の上のほうにベイブリッジのH形をした主塔が見えますね。主人の「主」と五重塔の「塔」で「主塔」と呼ぶんだそうです。その右にサッポロビールの看板が見えます。KCという看板も見えます。その右にちょっと背の高い、白っぽい細長いビルが見えるでしょう。あれが中小企業センターです。富貴楼はこのビルのところにありました。現在、道路になっているところにあったのでしょう。JR根岸線の効果の下に掘割があったのですが、お倉の富貴楼はその掘割に面してありました。
(「第一部 一世女傑の数奇な前半生」より)
鳥居民
1929年、東京生まれ、横浜に育つ。日本および中国近現代史研究家。夥しい資料を渉猟し、徹底した調査、考察をもとに独自の史観を展開。著書に、中国の行動原理を解明した古典的名著『毛沢東 五つの戦争』、経済開放への道を予言した『周恩来と毛沢東』、敗戦の年の1年間の動きを重層的に描く『昭和二十年』[第1期全14巻、既刊11巻]、開港から関東大震災までの横浜をテーマとした『横浜山手』『横浜富貴楼 お倉』がある。また、2004年に上梓した『「反日」で生きのびる中国』では、95年から始まった江沢民前国家主席による「愛国主義教育キャンペーン」の狙いを、毛沢東、トウ小平がおこなってきた統治手法に比して考究。反日デモで現実化した恐ろしい事態を正確に予測した。その分析は、日本における対中認識の一つの趨勢をつくった。
1929年、東京生まれ、横浜に育つ。日本および中国近現代史研究家。夥しい資料を渉猟し、徹底した調査、考察をもとに独自の史観を展開。著書に、中国の行動原理を解明した古典的名著『毛沢東 五つの戦争』、経済開放への道を予言した『周恩来と毛沢東』、敗戦の年の1年間の動きを重層的に描く『昭和二十年』[第1期全14巻、既刊11巻]、開港から関東大震災までの横浜をテーマとした『横浜山手』『横浜富貴楼 お倉』がある。また、2004年に上梓した『「反日」で生きのびる中国』では、95年から始まった江沢民前国家主席による「愛国主義教育キャンペーン」の狙いを、毛沢東、トウ小平がおこなってきた統治手法に比して考究。反日デモで現実化した恐ろしい事態を正確に予測した。その分析は、日本における対中認識の一つの趨勢をつくった。