南方特別留学生が見た戦時下の日本人
南方特別留学生について
二、三年前のある日、ちょうどジャカルタに滞在中だった私は、日本=インドネシア合弁企業家協会に勤めるクスナエニ氏の自宅で催されたある食事会に招かれた。行ってみると、流暢な日本語をあやつる銀髪の老紳士たちが寿司や刺し身に舌つづみを打ち、熱気を帯びた雰囲気のなかで思い出話に興じてうた。バティックのクバヤ姿にまじって日本人女性の姿も見うけられ、クスナエニ氏夫人の真知子さんと談笑している。
四、五十人ほども集まったそのにぎやかな集いは、クスナエニ氏とその友人たちが、一九四四年四月に、ジャカルタの港を出て日本への学びの旅に出発した日から五十年目を祝う会合だった。
五十年前、つまり第二次世界大戦の真っただなかに、二百人をこす留学生が、当時「南方」と総称された東南アジアの各地から日本へ送られた。南方特別留学生(略して「ナントク」)とよばれた、日本最初の国費留学生たちである。当時、東南アジア各地はなんらかのかたちで実質的に日本の支配下にあり、日本はそれらの地域を、中国や満州などの東アジアと合体させて、その指導下に「大東亜共栄圏」を築こうとしていた。南方特別留学生はその共栄圏の明日をになう人びとを養成するために選ばれ、派遣された青年たちである。現在の国名でいえば、インドネシア、マレーシア、シンガポール、ブルネイ、フィリピン、タイ、ミャンマーから、一九四三年に一一六人、一九四四年に八七人が招聘された。インドネシアからも二年度にわたってそれぞれ五十二人と二十九人が送られた。クスナエニさんはその第二期の留学生の一人だったのである。
私はたまたま、かつてジャカルタでの勤務中に、戦中の在日留学生が定期的に開催していた日本語の読書会に誘われ、一緒に本を読み、現代日本社会について討論したりしていたことから、何人かの方々とは旧知の仲であった。いま思えば、このグループの人たちと知り合った最初のきっかけは、二十数年前のはじめてのインドネシア留学のときにさかのぼる。そのとき、まだたどたどしかった私のインドネシア語の家庭教師をしてくださったスジマン先生のご主人が、偶然にも南方特別留学生の一人だった。それが、私がこの南方特別留学生という言葉を耳にした最初だった。
南方特別留学生を「大東亜の人質」とよんだ人がいる。また、彼らは「日本の輝ける遺産」なのか、それとも「咲かずじまいに終わった花」なのかと問うた研究者もいる。その評価は簡単にできるものではない。評価はべつとして、私はその日の会合の雰囲気や、彼らとの日ごろのつきあいから、彼らがはじめて日本の地を踏んだときからいまにいたるまで、この国に対して抱きつづけている感傷的なまでの愛着、憧憬の念と、その一方でいまあらためて日本や日本人に対して感じているはがゆさ、不安、そして「もの申したい」衝動などが奇妙に混じり合った、アンビバレントな気持ちを抱いているのを感じとった。彼らが五十年前を語るとき、一様にその目尻はやさしく、語調は熱っぽかった。戦時中の食糧難と、いまとはくらべものにならないほど外国人にとって不自由であったろうと思われる生活環境のなかで、彼らは何がそんなに愉しかったのか。「軍国主義日本」「ファシズム日本」への留学経歴は、戦後しばらくのあいだ、東南アジア社会ではマイナスの作用をすることが多かったと思われる。しかしそんななかにあっても、彼らはかつて日本へ留学したことを恥じるどころか、一貫してそれを誇りとし、日本とのつながりを積極的に求めつづけてきた。その彼らの姿勢、価値観はどこから来るのだろうか。
この強烈な印象は、喉に刺さった小魚の骨のように私を刺激しつづけた。この老紳士たちの話をいつかゆっくり聞いてみたいという衝動が私を動かした。五十周年記念の宴席には、戦前からすでに日本へわたり、戦時期にもなお日本にとどまっていた私費留学生も交じっていた。留学といえばオランダ行きが一般的であったその時代に、オランダ官憲ににらまれながらもあえて留学先として日本を選んだ人びとであった。そして彼らは、開戦とともに、将来のインドネシアの独立に資することを夢見て、さまざまなかたちで日本軍に協力したのであった。
私はこういった戦前からの人たちをふくめて、戦時下の日本を生きた留学生の話を聞き書きしようと考えた。ここでは、そのうち九人の方の話を紹介する。うち六人が南方特別留学生、残る三人は戦前から私費で渡航して、戦中なお勉学をつづけていた留学生である。その九人のうち六人がのちに日本人女性と結婚し、一人を除いて夫人を連れて帰国した(ただし、うち一人はのちに離婚)。私は個人的には戦後の混乱期に、遠い見知らぬ国の青年と結婚し、おそらくは家族の大反対を押し切って海をわたったであろう、この勇敢な日本人女性たちの生涯にも関心があった。彼女たちは日本という国がネガティブなイメージしか持ちえなかった一九五〇年代にインドネシアに嫁ぎ、さまざまな辛酸をなめて今日にいたっているのである。実はこの夫人たちの話しも別途聞き取ったのだが、その話はつぎの機会に譲ることにして、ここでは彼女たちのご主人の生きざまを紹介する。そのインタビューの多くは延々数時間にわたり、帰国後の話にまでおよんだ。それも興味深い内容であったが、今回はそれは簡単に紹介するにとどめ、彼らが戦時期の日本で、見たこと、体験したことの思い出に焦点をあてた。
二、三年前のある日、ちょうどジャカルタに滞在中だった私は、日本=インドネシア合弁企業家協会に勤めるクスナエニ氏の自宅で催されたある食事会に招かれた。行ってみると、流暢な日本語をあやつる銀髪の老紳士たちが寿司や刺し身に舌つづみを打ち、熱気を帯びた雰囲気のなかで思い出話に興じてうた。バティックのクバヤ姿にまじって日本人女性の姿も見うけられ、クスナエニ氏夫人の真知子さんと談笑している。
四、五十人ほども集まったそのにぎやかな集いは、クスナエニ氏とその友人たちが、一九四四年四月に、ジャカルタの港を出て日本への学びの旅に出発した日から五十年目を祝う会合だった。
五十年前、つまり第二次世界大戦の真っただなかに、二百人をこす留学生が、当時「南方」と総称された東南アジアの各地から日本へ送られた。南方特別留学生(略して「ナントク」)とよばれた、日本最初の国費留学生たちである。当時、東南アジア各地はなんらかのかたちで実質的に日本の支配下にあり、日本はそれらの地域を、中国や満州などの東アジアと合体させて、その指導下に「大東亜共栄圏」を築こうとしていた。南方特別留学生はその共栄圏の明日をになう人びとを養成するために選ばれ、派遣された青年たちである。現在の国名でいえば、インドネシア、マレーシア、シンガポール、ブルネイ、フィリピン、タイ、ミャンマーから、一九四三年に一一六人、一九四四年に八七人が招聘された。インドネシアからも二年度にわたってそれぞれ五十二人と二十九人が送られた。クスナエニさんはその第二期の留学生の一人だったのである。
私はたまたま、かつてジャカルタでの勤務中に、戦中の在日留学生が定期的に開催していた日本語の読書会に誘われ、一緒に本を読み、現代日本社会について討論したりしていたことから、何人かの方々とは旧知の仲であった。いま思えば、このグループの人たちと知り合った最初のきっかけは、二十数年前のはじめてのインドネシア留学のときにさかのぼる。そのとき、まだたどたどしかった私のインドネシア語の家庭教師をしてくださったスジマン先生のご主人が、偶然にも南方特別留学生の一人だった。それが、私がこの南方特別留学生という言葉を耳にした最初だった。
南方特別留学生を「大東亜の人質」とよんだ人がいる。また、彼らは「日本の輝ける遺産」なのか、それとも「咲かずじまいに終わった花」なのかと問うた研究者もいる。その評価は簡単にできるものではない。評価はべつとして、私はその日の会合の雰囲気や、彼らとの日ごろのつきあいから、彼らがはじめて日本の地を踏んだときからいまにいたるまで、この国に対して抱きつづけている感傷的なまでの愛着、憧憬の念と、その一方でいまあらためて日本や日本人に対して感じているはがゆさ、不安、そして「もの申したい」衝動などが奇妙に混じり合った、アンビバレントな気持ちを抱いているのを感じとった。彼らが五十年前を語るとき、一様にその目尻はやさしく、語調は熱っぽかった。戦時中の食糧難と、いまとはくらべものにならないほど外国人にとって不自由であったろうと思われる生活環境のなかで、彼らは何がそんなに愉しかったのか。「軍国主義日本」「ファシズム日本」への留学経歴は、戦後しばらくのあいだ、東南アジア社会ではマイナスの作用をすることが多かったと思われる。しかしそんななかにあっても、彼らはかつて日本へ留学したことを恥じるどころか、一貫してそれを誇りとし、日本とのつながりを積極的に求めつづけてきた。その彼らの姿勢、価値観はどこから来るのだろうか。
この強烈な印象は、喉に刺さった小魚の骨のように私を刺激しつづけた。この老紳士たちの話をいつかゆっくり聞いてみたいという衝動が私を動かした。五十周年記念の宴席には、戦前からすでに日本へわたり、戦時期にもなお日本にとどまっていた私費留学生も交じっていた。留学といえばオランダ行きが一般的であったその時代に、オランダ官憲ににらまれながらもあえて留学先として日本を選んだ人びとであった。そして彼らは、開戦とともに、将来のインドネシアの独立に資することを夢見て、さまざまなかたちで日本軍に協力したのであった。
私はこういった戦前からの人たちをふくめて、戦時下の日本を生きた留学生の話を聞き書きしようと考えた。ここでは、そのうち九人の方の話を紹介する。うち六人が南方特別留学生、残る三人は戦前から私費で渡航して、戦中なお勉学をつづけていた留学生である。その九人のうち六人がのちに日本人女性と結婚し、一人を除いて夫人を連れて帰国した(ただし、うち一人はのちに離婚)。私は個人的には戦後の混乱期に、遠い見知らぬ国の青年と結婚し、おそらくは家族の大反対を押し切って海をわたったであろう、この勇敢な日本人女性たちの生涯にも関心があった。彼女たちは日本という国がネガティブなイメージしか持ちえなかった一九五〇年代にインドネシアに嫁ぎ、さまざまな辛酸をなめて今日にいたっているのである。実はこの夫人たちの話しも別途聞き取ったのだが、その話はつぎの機会に譲ることにして、ここでは彼女たちのご主人の生きざまを紹介する。そのインタビューの多くは延々数時間にわたり、帰国後の話にまでおよんだ。それも興味深い内容であったが、今回はそれは簡単に紹介するにとどめ、彼らが戦時期の日本で、見たこと、体験したことの思い出に焦点をあてた。
倉沢愛子
一九四六年生まれ。一九七〇年東京大学教養学部卒業。一九七九年同大学博士課程修了。一九八八年、コーネル大学でPh.D.を取得。この間のべ三年間二回にわたってジャワの農村等でフィールドワークに従事。専攻/インドネシア現代史。名古屋大学大学院国際開発研究科教授を経て九七年十月より慶應義塾大学経済学部教授。著書として『日本占領下のジャワ農村の変容』(サントリー学芸賞受賞)『二十年目のインドネシア』(共に草思社)のほか共著、論文多数。
一九四六年生まれ。一九七〇年東京大学教養学部卒業。一九七九年同大学博士課程修了。一九八八年、コーネル大学でPh.D.を取得。この間のべ三年間二回にわたってジャワの農村等でフィールドワークに従事。専攻/インドネシア現代史。名古屋大学大学院国際開発研究科教授を経て九七年十月より慶應義塾大学経済学部教授。著書として『日本占領下のジャワ農村の変容』(サントリー学芸賞受賞)『二十年目のインドネシア』(共に草思社)のほか共著、論文多数。