天津の日本少年
はじめに 回想の天津
平穏な時代の時の流れは早い。しばらく会わなかった人と偶然再会したとき、「へえー、もうあれから十年になるのか」とおどろくことがある。十年の歳月の流れは、相手の顔にしわが刻まれ、白髪が増えたことに表されているが、ではその間に何ほどの変化があったのだろうかというと、すぐには思いだせないほど、物事は変わらぬまま、時だけが過ぎている。
だが、同じ十年間でも昭和十年から二十年にかけての十年はどうだろう。とりわけ後半の五年間は、おそらく百年か二百年に一度しか起こらない過酷な年月が日本人一人ひとりの運命を変えたのである。
戦争のあいだに別れた人びとがふたたび相まみえたとき、互いの手をにぎりしめ、「無事でよかったなあ」と心から生存を祝いあう感動がともなっていた。戦場から帰ってきた人も、戦災の災の下をかいくぐって生き延びた人も、会えば、互いの肉親や共通の知人の安否を問う話にはじまり、無事が知れたときは、「よくぞ、まあ」という喜びが胸に満ち、不幸を知らされたときには沈黙を破る言葉を失った。
あの時代の不幸は日本民族を等しなみに襲ったものだが、それでも人によって軽重があった。
私の一家の場合は格別に峻烈だったといえよう。
あれからもう五十年が過ぎた。
その後の私の人生にあれほどの過酷な事件は二度と起こらなかったし、これからも起こりようがあるまい。この五十年間、私は人並みに会社勤めをし、結婚して家庭を持ち、中年になってサラリーマンをやめて好きなことをしたおかげで、多少の苦労はしたけれども、いってみれば私の後半の人生は平穏な日常性の堆積のなかで今日にいたっている。
私の人生が終わりに近づくにつれ、不思議なことだが、過ぎ去った少年時代のことを思い浮かべることが多くなった。たとえばあるものを見たときに、それと同じものを見た少年時代の瞬間の記憶が突然、魔法のランプから立ち上がってくる巨人のように浮かびあがってくるのである。たとえば、最近ある人の家を訪れたとき、窓辺にゼラニウムの鉢がおいてあった。それを見た瞬間、私は声も出ないほどの衝撃をうけた。花の咲きぐあいから窓べりに落ちた花びらの散りぐあいにいたるまで、五十数年まえの天津のわが家の窓辺にあったものと寸分違わぬ光景であったからである。
親と過ごした幸福な私の少年時代は、それが外地だったという画然と区切りのついた過去だったため、はるか彼方の宇宙空間にかかってキラキラと光芒を放っている天体のように見える。回想にひたると、虹に包まれたメルヘンの世界のようにそれは温かく、懐かしい。私は何度も何度も回想をくりかえしたので、どんなディテールの記憶もますます強固になり、おどろくほどのリアリティをもつようになった。
終戦から五年がたち、朝鮮戦争がはじまったころだろうか、私はまだ二十代はじめで、東京の外国語大学に入って寮で暮らしていた。夏休みが近づくと、寮生たちは帰省の喜びで足が地に着かなくなり、仲良し同士が連れだって帰るスケジュールの打ち合わせに余念がない。「おまえのくにで一晩か二晩遊んでいくから泊めてくれよな」などと、遠方の者ほど途中下車して友人の家で遊んでいくのである。彼らが去ったあとは、潮が引いたように寮はガランドウになった。そして私ひとりが残った。
「八木はどうして帰らないのだ」
と不審そうに訊く同級生がいた。
「ウン、おれの家は東京だからな。べつに帰るところはないんだ」
「よかったらおれといっしょに帰らないか。おれの家は元地主だからな。部屋はいっぱいあるから、一か月いたって遠慮はいらんぞ」
と誘ってくれる友人がいたが、孤独だった私はかたくなに人の情けをうけなかった。
しかし、さすがにガランとなった寮で一か月以上暮らすのは気が滅入った。赤茶けた畳にゴロンとなって、ススで真っ黒になった天井を見つめているうちに、私は懐かしい記憶のなかの天津のわが家に帰郷をはじめたのである。このうえなくススけて汚い寮の天井がぼんやり消えてゆき、それがしだいに私が生まれ育った天津の家の居間の漆喰の天井に変わっていった。
その天井は、私が子供のときから何千回となく見上げてきたために、どんな細かい点までも記憶のなかに残っていた。壁と天井との境目はループになっていて、そこにわずかに突き出た模様があり、隅のほうにススを吸って震えている蜘蛛の巣の払い残りがあった。天井には転々と蠅の糞がついていた。かすかに走るひび割れの線が雨水にしみて黄ばみ、あざのようになっていた。私がなぜそんなに天井の細部を記憶しているかというと、子供のころ体が虚弱だったので、寝床から天井を見上げていた時間が長かったからである。
その部屋にはじゅうたんが敷いてあった。それがどんな色模様だったか、父がつけた煙草の焼け焦げの跡がどこにあったか、ほころんで白い麻糸がむき出しになっていた部分がどこにあったかなども、手にとるように想いだすことができた。それは兄たちと積み木で戦争ごっこをして、じゅうたんの模様の線にそって陣地を構築したり、おもちゃの戦車で敵陣に突入する通路にしたためである。
私の回想はその部屋を出て、つぎの部屋に移ってゆく。そこはいつも母が編み物をしていた部屋であり、私たち兄弟の勉強机がおいてあったところであり、ベランダに通じる窓辺にゼラニウムや水仙の鉢がおいてあった部屋である。壁際には渋いチョコレート色の箪笥があり、その上にきれいな音色のする金色の置時計があった。傘にびらびらのついた丈の高い電気スタンド、奥多摩のプロペラ船を描いた油絵。ガラスケースに入った藤娘の人形、母の宝石入れ、こういうたぐいのものをこと細かに回想していって、やがてベランダに出る。
そこからくすんだ茶色のレンガづくりの向かいの家が見え、その先の家々の煙突が見える。のどかな昼下がりの物売りの声が聞こえてくる。二階から怪談を降りる。踊り場に四角い木製の箱に黒い金属製の口がついた電話機がある。一階は応接間とダイニングルームになっている。
応接間には居間よりも豪華なじゅうたんが敷いてあり、ふかふかとしたソファと三つの客用の椅子がおいてあった。紫檀のテーブルには同じく紫檀のシガレットケースとホウロウ引きの三つ重ねの灰皿、ミニチュアのゴルフクラブを三脚にしたライターがおいてあった。この部屋はゴルフの賞品の展示室のようで、大きなガラスケースいっぱいに父がとってきた銀製の大小さまざまの優勝カップや盾やバックルが燦然と輝いていた。父はゴルフのハンディが六だったから、天津では敵なしで、これほどの賞品をものにしていたのだった。
隣のダイニングルームには大きな黒檀のテーブルがあり、なかに鏡をはめ込んだヴィクトリア朝ふうの食器棚に洋酒がずらりとならんでいた。父は酒が飲めないのに、これだけの洋酒があるのは、方々からのもらいものがそのままコレクションされていたからだった。壁には淡いピンクで西洋の風景画が描かれた皿時計がかかっていて、私はいつもその針を見ながら朝の食事をとった。
私の視線はさらにダイニングルーム横の階段を数段下りて台所に行き、煙で真っ黒になったかまどの上方の壁を見上げ、蠅よけの網戸を開けて狭い裏庭に出る。そこには中国人の使用人一家が住んでいる地下室に通じる入り口があり、近づくと悪臭のする彼らのトイレがある。裏庭は石炭置場にもなっているので、石炭の粉で真っ黒になったレンガが敷いてあり、それをはがすと大小のミミズが体をくねらせて出てきた。魚釣りに行くときは、きまってそこから餌を採った。
真裏の家は中国人の住居で、わが家はそこを〈猫屋敷〉とよんでいた。わが家の物干し場から数メートル先のこの家の物干し場に、主婦らしい中年の人が洗面器にいっぱい残飯を盛っておくと、飼い猫や野良猫たちがいっぱい集まってきたからである。薄汚れた灰色の雄猫や茶虎の雌など、各種各様の猫たちのしっぽを長く垂らした姿まで、私は執拗に想いだした。
長い夏休みが終わって学友たちが帰ってくると、ようやく私は孤独から解放された。
そのころ読んだプルーストの『失われた時を求めて』の主人公がマドレーヌ菓子の一片から突然失われた時を回復するように、見おぼえのあるものを見たときに突然過去の情景を想いだす癖は、その後も二十代の後半までつづいた。
私がサラリーマンになって営業担当地域となった横浜は復興が遅れ、焼け残った洋風建築が多く、なんとなく天津の情景と似通うところがあった。もう二度と天津を訪れる機会はないと想っていた私は、天津のにおいを嗅ぐために、とりわけ外人墓地のある元町界隈を用もないのに何度も何度も往復した。
外人が住んでいるらしい家のまえを通ると、なかの家具調度や家族のたたずまいまで思い浮かべた。台所の蠅よけの網戸を見た瞬間、私は天津の台所を想いだしたし、庭先に植えてある松葉ボタンやコスモスを見るたびに、かつて自分の家に植わっていた同じ植物を想いだした。そういう光景を見たときは、思わず足が止まってしまうのだが、いつまでも立ち止まって眺めていては不審に思われるので、何度もそのまえを行き来して眺めなおした。
ある夏の日の昼下がり、雑草の生い茂った焼け跡の植えに積みかさねた古材に、殿様バッタが一匹止まっているのを発見した。そのとき、私の心は震えた。まさに見おぼえのある光景だったからである。
少年時代はよくバッタ採りをした。緑色のバッタ、茶色のバッタ。バッタは天津の空き地のいたるところにたくさんいた。捕まえるときは後ろから抜き足差し足で近づいていってパッと網か帽子をかぶせる。そのときは精神を集中させるので、宇宙の運行が止まったような瞬間である。たいていの場合はバサバサと羽音をさせて飛び去られてしまうのだが、何度も追いつめたあとでやっと戦果を得るのである。背広を着た私はさすがにバッタを追うようなことをしなかったが、近づいて行くと、バッタの黒い影がくっきりと材木に落ちていて、草いきれでむっとした。この草いきれも、私が子供時代に嗅いだとおりのものだった。
だが、奇妙なことに、私のこのような回想がいささかかたよっている。終戦の二年まえに天津から北京に移っていたのに、北京のことはちっとも想いださないのだ。つまり、いやな記憶は完全に排除し、美しい記憶ばかり想いだしていた。私のなかにはまばゆい光と闇の二つがあって、私は闇を恐れるあまり、光のみを無償に恋い焦がれていたのである。
平穏な時代の時の流れは早い。しばらく会わなかった人と偶然再会したとき、「へえー、もうあれから十年になるのか」とおどろくことがある。十年の歳月の流れは、相手の顔にしわが刻まれ、白髪が増えたことに表されているが、ではその間に何ほどの変化があったのだろうかというと、すぐには思いだせないほど、物事は変わらぬまま、時だけが過ぎている。
だが、同じ十年間でも昭和十年から二十年にかけての十年はどうだろう。とりわけ後半の五年間は、おそらく百年か二百年に一度しか起こらない過酷な年月が日本人一人ひとりの運命を変えたのである。
戦争のあいだに別れた人びとがふたたび相まみえたとき、互いの手をにぎりしめ、「無事でよかったなあ」と心から生存を祝いあう感動がともなっていた。戦場から帰ってきた人も、戦災の災の下をかいくぐって生き延びた人も、会えば、互いの肉親や共通の知人の安否を問う話にはじまり、無事が知れたときは、「よくぞ、まあ」という喜びが胸に満ち、不幸を知らされたときには沈黙を破る言葉を失った。
あの時代の不幸は日本民族を等しなみに襲ったものだが、それでも人によって軽重があった。
私の一家の場合は格別に峻烈だったといえよう。
あれからもう五十年が過ぎた。
その後の私の人生にあれほどの過酷な事件は二度と起こらなかったし、これからも起こりようがあるまい。この五十年間、私は人並みに会社勤めをし、結婚して家庭を持ち、中年になってサラリーマンをやめて好きなことをしたおかげで、多少の苦労はしたけれども、いってみれば私の後半の人生は平穏な日常性の堆積のなかで今日にいたっている。
私の人生が終わりに近づくにつれ、不思議なことだが、過ぎ去った少年時代のことを思い浮かべることが多くなった。たとえばあるものを見たときに、それと同じものを見た少年時代の瞬間の記憶が突然、魔法のランプから立ち上がってくる巨人のように浮かびあがってくるのである。たとえば、最近ある人の家を訪れたとき、窓辺にゼラニウムの鉢がおいてあった。それを見た瞬間、私は声も出ないほどの衝撃をうけた。花の咲きぐあいから窓べりに落ちた花びらの散りぐあいにいたるまで、五十数年まえの天津のわが家の窓辺にあったものと寸分違わぬ光景であったからである。
親と過ごした幸福な私の少年時代は、それが外地だったという画然と区切りのついた過去だったため、はるか彼方の宇宙空間にかかってキラキラと光芒を放っている天体のように見える。回想にひたると、虹に包まれたメルヘンの世界のようにそれは温かく、懐かしい。私は何度も何度も回想をくりかえしたので、どんなディテールの記憶もますます強固になり、おどろくほどのリアリティをもつようになった。
終戦から五年がたち、朝鮮戦争がはじまったころだろうか、私はまだ二十代はじめで、東京の外国語大学に入って寮で暮らしていた。夏休みが近づくと、寮生たちは帰省の喜びで足が地に着かなくなり、仲良し同士が連れだって帰るスケジュールの打ち合わせに余念がない。「おまえのくにで一晩か二晩遊んでいくから泊めてくれよな」などと、遠方の者ほど途中下車して友人の家で遊んでいくのである。彼らが去ったあとは、潮が引いたように寮はガランドウになった。そして私ひとりが残った。
「八木はどうして帰らないのだ」
と不審そうに訊く同級生がいた。
「ウン、おれの家は東京だからな。べつに帰るところはないんだ」
「よかったらおれといっしょに帰らないか。おれの家は元地主だからな。部屋はいっぱいあるから、一か月いたって遠慮はいらんぞ」
と誘ってくれる友人がいたが、孤独だった私はかたくなに人の情けをうけなかった。
しかし、さすがにガランとなった寮で一か月以上暮らすのは気が滅入った。赤茶けた畳にゴロンとなって、ススで真っ黒になった天井を見つめているうちに、私は懐かしい記憶のなかの天津のわが家に帰郷をはじめたのである。このうえなくススけて汚い寮の天井がぼんやり消えてゆき、それがしだいに私が生まれ育った天津の家の居間の漆喰の天井に変わっていった。
その天井は、私が子供のときから何千回となく見上げてきたために、どんな細かい点までも記憶のなかに残っていた。壁と天井との境目はループになっていて、そこにわずかに突き出た模様があり、隅のほうにススを吸って震えている蜘蛛の巣の払い残りがあった。天井には転々と蠅の糞がついていた。かすかに走るひび割れの線が雨水にしみて黄ばみ、あざのようになっていた。私がなぜそんなに天井の細部を記憶しているかというと、子供のころ体が虚弱だったので、寝床から天井を見上げていた時間が長かったからである。
その部屋にはじゅうたんが敷いてあった。それがどんな色模様だったか、父がつけた煙草の焼け焦げの跡がどこにあったか、ほころんで白い麻糸がむき出しになっていた部分がどこにあったかなども、手にとるように想いだすことができた。それは兄たちと積み木で戦争ごっこをして、じゅうたんの模様の線にそって陣地を構築したり、おもちゃの戦車で敵陣に突入する通路にしたためである。
私の回想はその部屋を出て、つぎの部屋に移ってゆく。そこはいつも母が編み物をしていた部屋であり、私たち兄弟の勉強机がおいてあったところであり、ベランダに通じる窓辺にゼラニウムや水仙の鉢がおいてあった部屋である。壁際には渋いチョコレート色の箪笥があり、その上にきれいな音色のする金色の置時計があった。傘にびらびらのついた丈の高い電気スタンド、奥多摩のプロペラ船を描いた油絵。ガラスケースに入った藤娘の人形、母の宝石入れ、こういうたぐいのものをこと細かに回想していって、やがてベランダに出る。
そこからくすんだ茶色のレンガづくりの向かいの家が見え、その先の家々の煙突が見える。のどかな昼下がりの物売りの声が聞こえてくる。二階から怪談を降りる。踊り場に四角い木製の箱に黒い金属製の口がついた電話機がある。一階は応接間とダイニングルームになっている。
応接間には居間よりも豪華なじゅうたんが敷いてあり、ふかふかとしたソファと三つの客用の椅子がおいてあった。紫檀のテーブルには同じく紫檀のシガレットケースとホウロウ引きの三つ重ねの灰皿、ミニチュアのゴルフクラブを三脚にしたライターがおいてあった。この部屋はゴルフの賞品の展示室のようで、大きなガラスケースいっぱいに父がとってきた銀製の大小さまざまの優勝カップや盾やバックルが燦然と輝いていた。父はゴルフのハンディが六だったから、天津では敵なしで、これほどの賞品をものにしていたのだった。
隣のダイニングルームには大きな黒檀のテーブルがあり、なかに鏡をはめ込んだヴィクトリア朝ふうの食器棚に洋酒がずらりとならんでいた。父は酒が飲めないのに、これだけの洋酒があるのは、方々からのもらいものがそのままコレクションされていたからだった。壁には淡いピンクで西洋の風景画が描かれた皿時計がかかっていて、私はいつもその針を見ながら朝の食事をとった。
私の視線はさらにダイニングルーム横の階段を数段下りて台所に行き、煙で真っ黒になったかまどの上方の壁を見上げ、蠅よけの網戸を開けて狭い裏庭に出る。そこには中国人の使用人一家が住んでいる地下室に通じる入り口があり、近づくと悪臭のする彼らのトイレがある。裏庭は石炭置場にもなっているので、石炭の粉で真っ黒になったレンガが敷いてあり、それをはがすと大小のミミズが体をくねらせて出てきた。魚釣りに行くときは、きまってそこから餌を採った。
真裏の家は中国人の住居で、わが家はそこを〈猫屋敷〉とよんでいた。わが家の物干し場から数メートル先のこの家の物干し場に、主婦らしい中年の人が洗面器にいっぱい残飯を盛っておくと、飼い猫や野良猫たちがいっぱい集まってきたからである。薄汚れた灰色の雄猫や茶虎の雌など、各種各様の猫たちのしっぽを長く垂らした姿まで、私は執拗に想いだした。
長い夏休みが終わって学友たちが帰ってくると、ようやく私は孤独から解放された。
そのころ読んだプルーストの『失われた時を求めて』の主人公がマドレーヌ菓子の一片から突然失われた時を回復するように、見おぼえのあるものを見たときに突然過去の情景を想いだす癖は、その後も二十代の後半までつづいた。
私がサラリーマンになって営業担当地域となった横浜は復興が遅れ、焼け残った洋風建築が多く、なんとなく天津の情景と似通うところがあった。もう二度と天津を訪れる機会はないと想っていた私は、天津のにおいを嗅ぐために、とりわけ外人墓地のある元町界隈を用もないのに何度も何度も往復した。
外人が住んでいるらしい家のまえを通ると、なかの家具調度や家族のたたずまいまで思い浮かべた。台所の蠅よけの網戸を見た瞬間、私は天津の台所を想いだしたし、庭先に植えてある松葉ボタンやコスモスを見るたびに、かつて自分の家に植わっていた同じ植物を想いだした。そういう光景を見たときは、思わず足が止まってしまうのだが、いつまでも立ち止まって眺めていては不審に思われるので、何度もそのまえを行き来して眺めなおした。
ある夏の日の昼下がり、雑草の生い茂った焼け跡の植えに積みかさねた古材に、殿様バッタが一匹止まっているのを発見した。そのとき、私の心は震えた。まさに見おぼえのある光景だったからである。
少年時代はよくバッタ採りをした。緑色のバッタ、茶色のバッタ。バッタは天津の空き地のいたるところにたくさんいた。捕まえるときは後ろから抜き足差し足で近づいていってパッと網か帽子をかぶせる。そのときは精神を集中させるので、宇宙の運行が止まったような瞬間である。たいていの場合はバサバサと羽音をさせて飛び去られてしまうのだが、何度も追いつめたあとでやっと戦果を得るのである。背広を着た私はさすがにバッタを追うようなことをしなかったが、近づいて行くと、バッタの黒い影がくっきりと材木に落ちていて、草いきれでむっとした。この草いきれも、私が子供時代に嗅いだとおりのものだった。
だが、奇妙なことに、私のこのような回想がいささかかたよっている。終戦の二年まえに天津から北京に移っていたのに、北京のことはちっとも想いださないのだ。つまり、いやな記憶は完全に排除し、美しい記憶ばかり想いだしていた。私のなかにはまばゆい光と闇の二つがあって、私は闇を恐れるあまり、光のみを無償に恋い焦がれていたのである。
八木哲郎
一九三一年、天津生まれ。東京外国語大学中国学科卒業。味の素勤務を経て、一九七〇年に「知的生産の技術」研究会を設立。執筆、編集のかたわら研究会を運営する。現在「知的生産の技術」研究会会長。著書は『大器の条件』(日本能率協会マネジメントセンター)『モノと頭の整理学』(日本実業出版社刊)『ボランティアが世界を変えた』(法蔵館刊〕『わたしの知的生産の技術』(講談社/編著)などのほか多数。
一九三一年、天津生まれ。東京外国語大学中国学科卒業。味の素勤務を経て、一九七〇年に「知的生産の技術」研究会を設立。執筆、編集のかたわら研究会を運営する。現在「知的生産の技術」研究会会長。著書は『大器の条件』(日本能率協会マネジメントセンター)『モノと頭の整理学』(日本実業出版社刊)『ボランティアが世界を変えた』(法蔵館刊〕『わたしの知的生産の技術』(講談社/編著)などのほか多数。