タラワ、マキンの戦い
――海軍陸戦隊ギルバート戦記
はじめに
東京都下小笠原諸島の南方に広がるのが南洋諸島である。南洋諸島は、西太平洋の赤道以北、東経一三〇度から同一七五度に至る東西四八〇〇キロ、南北二三〇〇キロにわたる広域に、火山とサンゴ礁から成る一四〇〇余の島嶼が点在している。
米領グァム以外はすべて独領であったのを第一次世界大戦の際、連合国の一員として参戦した日本が軍事占領し、以後一括して国際連盟の委任の形式で統治していた。
南洋諸島は大きく四ブロック、つまりマリアナ、東西カロリン、マーシャルの各諸島に分けられる。東端のマーシャル諸島の南方に赤道を挟んで南北に連なる列島が、本書の舞台となるギルバート諸島である。この諸島は英国のギルバート・エリス直轄植民地であった。そのギルバート諸島の北端に位置する環礁がマキン、そこから一九〇キロ南に位置するのがタラワである。
マキン、タラワは、戦前までは太平洋の地図を虫眼鏡で探しても見あたらないほどの孤島であった。それが日米両軍のすさまじい死闘によって一躍脚光を浴びた。日本軍が構築した太平洋上のサンゴ島要塞をめぐり、海軍陸戦隊とアメリカ海兵隊との空前の水陸両用攻防戦となった。
開戦と同時に日本はマーシャルを拠点としてギルバート諸島を占領し、さらにこの地を足掛かりに南方諸島を占領して米豪遮断を策していた。一方、米国は対日反攻戦略として二通りの島嶼進攻路線を策定した。ひとつはニューギニア東岸から北上し比島を経て東京に迫る南方ルート、いまひとつはタラワからはじまって西太平洋の中央に位置する南洋諸島を石鹸して東京に迫る中央ルートである。両ルートが沖縄で合同して本土をうかがわんとしたとき、聖断が降った。
日本の敗戦への道には大きな節目がいくつか存在する。第一段はミッドウェー海戦、第二段はガダルカナルとブナの後方転進であり、第三段がこのギルバート攻防戦であった。以後、島嶼戦はすべて玉砕戦となった。本書では中央ルートの突破口となったギルバート戦に意義を認め、この戦闘に焦点を当てることにする。
筆者は開戦前からマーシャルに配員され、その地で編成された陸戦隊の小部隊を指揮してギルバートに転進し、タラワ玉砕の二カ月半前にその地を離れた。マキン、タラワの生存者は僅少で戦闘の全貌を語る手記がない。筆者は玉砕前に離島した者の中でももはや古参株となったので、ここで各資料、生存者の証言をもとにこの戦記をまとめておこうと思った。玉砕戦であるから資料としては米側のそれに頼らざるをえない。また防衛研修所編の戦史業書も貴重な資料として参考とした。しかしいずれも直前までこの眼で見たところと若干異なるものがあるので、戦史記の歪みを修正し、いささかの所見を交えた。
筆者は当時二十六歳。海軍兵学校を卒業して四年、開戦直前の十月に大尉に進級したばかりであった。人生経験はもちろん、正規将校としての経験も浅薄であった。戦時特進で大尉になっていただけの若輩。戦争遂行システムの端末に配され、海軍全体の戦略、作戦構想を把握する立場にはなかった。ましてや筆者は歴史学者でも政治学者でもない。したがって、ここで太平洋戦争のなんたるかを云々する考えなど毛頭ない。
しかし、戦史は勝者の見方によって編まれる。敗者側の言い分は生存者によってのみ代弁される。この筆者の記録にしても、マキン、タラワに眠る戦史たちには不本意なものであるかもしれない。それを承知でなお筆者は、中部太平洋に浮かぶケシ粒のようなサンゴ礁島で行われた日米両軍の死闘を書き残しておこうと思う。
戦場となったギルバート諸島は、一九七九年英国から独立した。周辺の諸島を併せ、植民地以前の名称に戻し、「キリバス共和国」となっている。日本のカツオ・マグロ遠洋漁業の重要漁場であり、タラワはその首都である。本書では、情況説明の都合上、戦争当時の呼称「ギルバート諸島」を用いることにする。
東京都下小笠原諸島の南方に広がるのが南洋諸島である。南洋諸島は、西太平洋の赤道以北、東経一三〇度から同一七五度に至る東西四八〇〇キロ、南北二三〇〇キロにわたる広域に、火山とサンゴ礁から成る一四〇〇余の島嶼が点在している。
米領グァム以外はすべて独領であったのを第一次世界大戦の際、連合国の一員として参戦した日本が軍事占領し、以後一括して国際連盟の委任の形式で統治していた。
南洋諸島は大きく四ブロック、つまりマリアナ、東西カロリン、マーシャルの各諸島に分けられる。東端のマーシャル諸島の南方に赤道を挟んで南北に連なる列島が、本書の舞台となるギルバート諸島である。この諸島は英国のギルバート・エリス直轄植民地であった。そのギルバート諸島の北端に位置する環礁がマキン、そこから一九〇キロ南に位置するのがタラワである。
マキン、タラワは、戦前までは太平洋の地図を虫眼鏡で探しても見あたらないほどの孤島であった。それが日米両軍のすさまじい死闘によって一躍脚光を浴びた。日本軍が構築した太平洋上のサンゴ島要塞をめぐり、海軍陸戦隊とアメリカ海兵隊との空前の水陸両用攻防戦となった。
開戦と同時に日本はマーシャルを拠点としてギルバート諸島を占領し、さらにこの地を足掛かりに南方諸島を占領して米豪遮断を策していた。一方、米国は対日反攻戦略として二通りの島嶼進攻路線を策定した。ひとつはニューギニア東岸から北上し比島を経て東京に迫る南方ルート、いまひとつはタラワからはじまって西太平洋の中央に位置する南洋諸島を石鹸して東京に迫る中央ルートである。両ルートが沖縄で合同して本土をうかがわんとしたとき、聖断が降った。
日本の敗戦への道には大きな節目がいくつか存在する。第一段はミッドウェー海戦、第二段はガダルカナルとブナの後方転進であり、第三段がこのギルバート攻防戦であった。以後、島嶼戦はすべて玉砕戦となった。本書では中央ルートの突破口となったギルバート戦に意義を認め、この戦闘に焦点を当てることにする。
筆者は開戦前からマーシャルに配員され、その地で編成された陸戦隊の小部隊を指揮してギルバートに転進し、タラワ玉砕の二カ月半前にその地を離れた。マキン、タラワの生存者は僅少で戦闘の全貌を語る手記がない。筆者は玉砕前に離島した者の中でももはや古参株となったので、ここで各資料、生存者の証言をもとにこの戦記をまとめておこうと思った。玉砕戦であるから資料としては米側のそれに頼らざるをえない。また防衛研修所編の戦史業書も貴重な資料として参考とした。しかしいずれも直前までこの眼で見たところと若干異なるものがあるので、戦史記の歪みを修正し、いささかの所見を交えた。
筆者は当時二十六歳。海軍兵学校を卒業して四年、開戦直前の十月に大尉に進級したばかりであった。人生経験はもちろん、正規将校としての経験も浅薄であった。戦時特進で大尉になっていただけの若輩。戦争遂行システムの端末に配され、海軍全体の戦略、作戦構想を把握する立場にはなかった。ましてや筆者は歴史学者でも政治学者でもない。したがって、ここで太平洋戦争のなんたるかを云々する考えなど毛頭ない。
しかし、戦史は勝者の見方によって編まれる。敗者側の言い分は生存者によってのみ代弁される。この筆者の記録にしても、マキン、タラワに眠る戦史たちには不本意なものであるかもしれない。それを承知でなお筆者は、中部太平洋に浮かぶケシ粒のようなサンゴ礁島で行われた日米両軍の死闘を書き残しておこうと思う。
戦場となったギルバート諸島は、一九七九年英国から独立した。周辺の諸島を併せ、植民地以前の名称に戻し、「キリバス共和国」となっている。日本のカツオ・マグロ遠洋漁業の重要漁場であり、タラワはその首都である。本書では、情況説明の都合上、戦争当時の呼称「ギルバート諸島」を用いることにする。