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立ち読みコーナー
五十年ぶりの日本軍抑留所
――バンドンへの旅
F・スプリンガー / 近藤紀子 訳
裏切り

 多くの人々の意表を突いて、クリス・レーヘンスベルフは総選挙後すぐに、若い世代の政治家にバトンタッチする潮時だという、事情通にはあまり納得のいかない理由で自分の自席を他の者に譲った。同時に彼は、これが年配議員諸氏の模範となってくれればよいが、との考えを示した。野党はすぐさま、選挙公約を反故にするのもはなはだしいと決めつけ、党の同僚たちは、彼の分別なしでは党はまだまだやっていけないと、異口同音に残念がるのであった。
 〈政界の重鎮。元老。党の良心。冷静なリアリスト。脚光は他の者に譲ってみずからは楽屋裏で鋭い状況分析をし、しばしば党を冷静な判断決定へと誘導する人。大臣諸氏の支えであり、信頼を一身に集めている人〉というのが、マスコミの行動するレーヘンスベルフの人物像であった。三つの内閣の組閣に際しても、常に陰の実力者として奔走した。何度か大臣職の指名を辞退したことは周知のところで、なかでも経済相のポストを固辞したときは、当時、財界は非常に残念がったものだ。というのも、レーヘンスベルフは国会において、財界の利益をもっとも擁護してくれる人物だったからだ。

 党執行部は送別の会を主催した。首相はレーヘンスベルフが十五年前に財界から引き抜いて政界に押しだした人物だったが、その首相がまえもって招待客のリストに目を通すことを希望して手をくわえた結果、パーティーはこの種の会合としては通常の規模を大幅に上回る大々的なものとなった。取材のテレビ・チームは、政治、文化、そして財界の著名人を公平に取材すべく懸命に動きまわっていた。レーヘンスベルフの温かい言葉、賛辞の数々が、移動マイクを通して語られた。この華やいだ雰囲気に包まれた式の山場は、短くはあったが人の心を動かす首相の挨拶の辞であった。それにひきつづき、首相はオランダ王室十字勲章をレーヘンスベルフの胸にかけ、妻のフェーラ・レーヘンスベルフの頬に優しくキスをした。
 「首相よ、汝はユダの上をいく裏切り者だ」とレーヘンスベルフは思ったが、本当に裏切られたという感情はもうなかった。ものごとを相対化して見る政治家の分別を完治させるレーヘンスベルフの感謝の辞は、会場の出席者を感動させるものであり、フェーラと二人の令嬢のあいだに立つこの国の指導者も心を動かされ、いま勲章を受けたばかりのレーヘンスベルフの言葉をひとことも聞き漏らすまいとしているようにみえた。

 レーヘンスベルフの愛弟子のような存在だった首相は、自党内の、あるいは連立内閣各党派間の調整を図るために何かよい打開策はないものかと彼に長々と電話かけてよこす(それも、よりによって週末に)習慣があった。また、首相は「レーヘンスベルフは僕のグル(導師)だ」とある新聞記者に語っていたが、その導師たるレーヘンスベルフを、長時間にわたる国会審議のあと、深夜であろうがおかまいなく内密の懇談のためにしばしば自分の落ちついた執務室に招いた。レーヘンスベルフは、電気スタンドの穏やかな証明のもとで二人だけで懇談したあと、自負心をくすぐられて首相執務室をあとにしたことを認めざるを得なかった。これがこの人の力であった。
 こういった懇談のとき首相は、「君の意見は重要であり、君なしには僕はいかなる決定もできない」と、相手を立てた論法で話を進めるのだ。このようにして、この政界のサラブレッドは血統のよいアンテナで、オランダ社会の取るに足りない微細な信号であろうとも自分の顧問たちから聞き取り、そのうえで、かねてからの自分の思惑どおりに事を運ぶのであった。レーヘンスベルフは常に、「肝心なのは単刀直入に核心を突くことだ、遠まわしに戯言をまき散らしてもだめだ」と、彼の愛弟子に助言していた。現実の政治は、できるか、できないかだ。


F・スプリンガー
本名カーレル・ヤン・スフネイデル。一九三二年、旧オランダ領東インド(現インドネシア)のバタヴィア(現ジャカルタ)生まれ。父親はプロテスタント系高校のドイツ語教諭(のちにアムステルダム大学のドイツ語教授)。マランとバンドンで幼年時代をすごし、十歳のとき日本軍民間人抑留所に、十四歳でオランダ本国に引き揚げ、ライデン大学法学科を卒業。一九六一年、行政官としてニューギニアに駐在。一九六四年から八九年、外交官としてニューヨーク、バンコク、ブリュッセルなど各国に勤務。駐東ドイツ大使を最後に退官。外交官時代から作家活動をはじめ、『ブーゲンヴィル』、『さようなら、ニューヨーク』など駐在地を部隊にした小説を執筆。一九八一年刊行の『ブーゲンヴィル』でボルデウェイク文学大賞を受賞、一躍脚光を浴びる。一九九五年、全作品でコンスタンテイン・ハイヘンス文学大賞を受賞。

訳者:近藤紀子
翻訳家。一九四一年山梨県生まれ。六三年、東京外国語大学インドネシア語科卒業。六四年オランダ政府給費生としてライデン大学に留学。オランダ近代文学を専攻する。以来ライデン市に在住、紀子ドゥ・フローメン(De Vroomen)の名前で日本文学の紹介につとめる。翻訳書に大江健三郎『みずから我が涙をぬぐいたまう日』『芽むしり仔撃ち』『万延元年のフットボール』、大岡信『遊星の寝返りの下で』、安部公房『短編集』、オランダ語から日本語への訳書として『西欧の植民地喪失と日本』(草思社刊)、著書として『連句・夏の日』『大江源三郎・文学の世界』などがある。