老いてなお、こころ愉しく美しく
まえがき
二〇〇〇(平成十二)年一月五日、私は九十二歳になりました。驚いています。こんなに長生きするなんて思ってもみませんでした。おかげさまで、五体は健やかというわけではありませんが、五臓六腑は、どこが痛いということもなく、五感は嗅覚を除いては尋常で、時に疲れると、味覚があやしくなりますが、白内障の手術後は視力もたしかですし、聴覚が衰えないとは、朗読を続けられるということで、まことに感謝しているのです。
平均寿命をすぎると病院などでは超高齢者というそうですが、超高齢者はさすがに力がなく、体液が脚のほうに降りていったまま戻らず、足首が浮腫を起こすのです。遠い昔、森雅之さんがまだ成城学園の学生だったころ、
「足首のキュッと細いのは、男をゾクッとさせるのだ」
などと、ませたことをいっていたのを思い出しますが、夕方にあると私の足首はゾッとするほど太くなって、靴が履けません。それにいくら元気といっても、やはり何をするのもくたびれます。
朝起きて、雨戸を引き、光を取り入れてから着替えをします。テレビのニュースを聞きながら、さて今日は何を着ようか、お天気と相談しながら、とくに冬は下拵えが大変です。膝を冷やさないようにサポーターをはめて、腰を冷やさないように下着を重ねて、なにしろ太っていますので、靴下にいたるまで、はくという所作、これがなかなかの大仕事です。ちょっとはばかりに入ったって、出てくるまでの時間のかかること、その間に電話のベルが鳴ったりしても、どうにもこうにも動きがとれません。曲がらないひざのためにも体重を落とさないといけないと承知してはいるのですが、これがなかなかやさしいことではありません。
あれは夫の玄が亡くなる二年前ごろでしたから、七十六歳のときですか、ダイエットをしたことがありました。もう歳なのだから無理するなといわれましたが、もう一度舞台に立ちたいと思って、「ハロルドとモード」のモード役は無理だとしても、志賀直哉の短編からヒントを得て私が狂言に書き直した「転生」は歳をとっても、というより歳を重ねるほどに味わいも、滑稽味も増しておもしろいと思うので、何とか演じたかったからです。そのことを知った文学座の稲野和子さんが、ローラー健康法という、身体をローラーでマッサージする施療院に連れて行ってくれました。稲野さんは「ハロルドとモード」でハロルドの母親役を好演してくれましたが、私のモード婆さんを、もう一度復活させようと、車で迎えにきてくれました。そして、そこで教えられたとおりのダイエット食を教えられたとおりにしましたら、びっくりするほど順調に痩せていったのです。夫の現も、
「僕も一緒にダイエットをつきあうよ」
と規定食をとりはじめたら、彼は私以上にみるみるうちに痩せて、ズボンはぶかぶか、
「ほら、バンドの穴を四つも飛ばして締めているのだよ」
と、家に来る人たちにバンドを見せて自慢していました。ところが、それはダイエットのせいではなく、胃癌の進行の始まりだったのです。もちろん二人とも病気に気づかず、無邪気によろこんでいたのですが、玄の食欲がなくなりはじめていたことに気づきませんでした。彼は痩せてくると大よろこびしていましたが、私のほうは、痩せてくると、なんだか力がなくなって、ふわふわと浮いているようで、まことに頼りないのです。規定食ではお腹も空くし、それにどちらかというと和食より洋食が好きで、チーズ、バター、お肉は牛もマトンも鴨も大好き、郷里の盛岡から送られてくるイクラやウニ、どれもこれもダイエットの敵みたいなものが大好きな私にとって、なるべくなら長続きはしたくないお食事でした。
私たち明治生まれは、飽食の時代に育った若者たちには想像もできないほど質素でしたし、食料難のころに染みついた、もったいないという考えと、感謝の心をなくさないものですから、少々カビが生えても、すぐに捨てたりしないで、カビを削って食べたりしますが、それでもお腹をこわさないのですから、そうとう野蛮にできているのです。カビというのは目にみえない部分にも生えているそうですが、昔の人はお餅のカビなんか、包丁で削って平気で食べていました。私なんか最近までカビが生えるから、いろいろわけのわからない添加物がなくて安心、などと思っていたほどです。
二〇〇〇(平成十二)年一月五日、私は九十二歳になりました。驚いています。こんなに長生きするなんて思ってもみませんでした。おかげさまで、五体は健やかというわけではありませんが、五臓六腑は、どこが痛いということもなく、五感は嗅覚を除いては尋常で、時に疲れると、味覚があやしくなりますが、白内障の手術後は視力もたしかですし、聴覚が衰えないとは、朗読を続けられるということで、まことに感謝しているのです。
平均寿命をすぎると病院などでは超高齢者というそうですが、超高齢者はさすがに力がなく、体液が脚のほうに降りていったまま戻らず、足首が浮腫を起こすのです。遠い昔、森雅之さんがまだ成城学園の学生だったころ、
「足首のキュッと細いのは、男をゾクッとさせるのだ」
などと、ませたことをいっていたのを思い出しますが、夕方にあると私の足首はゾッとするほど太くなって、靴が履けません。それにいくら元気といっても、やはり何をするのもくたびれます。
朝起きて、雨戸を引き、光を取り入れてから着替えをします。テレビのニュースを聞きながら、さて今日は何を着ようか、お天気と相談しながら、とくに冬は下拵えが大変です。膝を冷やさないようにサポーターをはめて、腰を冷やさないように下着を重ねて、なにしろ太っていますので、靴下にいたるまで、はくという所作、これがなかなかの大仕事です。ちょっとはばかりに入ったって、出てくるまでの時間のかかること、その間に電話のベルが鳴ったりしても、どうにもこうにも動きがとれません。曲がらないひざのためにも体重を落とさないといけないと承知してはいるのですが、これがなかなかやさしいことではありません。
あれは夫の玄が亡くなる二年前ごろでしたから、七十六歳のときですか、ダイエットをしたことがありました。もう歳なのだから無理するなといわれましたが、もう一度舞台に立ちたいと思って、「ハロルドとモード」のモード役は無理だとしても、志賀直哉の短編からヒントを得て私が狂言に書き直した「転生」は歳をとっても、というより歳を重ねるほどに味わいも、滑稽味も増しておもしろいと思うので、何とか演じたかったからです。そのことを知った文学座の稲野和子さんが、ローラー健康法という、身体をローラーでマッサージする施療院に連れて行ってくれました。稲野さんは「ハロルドとモード」でハロルドの母親役を好演してくれましたが、私のモード婆さんを、もう一度復活させようと、車で迎えにきてくれました。そして、そこで教えられたとおりのダイエット食を教えられたとおりにしましたら、びっくりするほど順調に痩せていったのです。夫の現も、
「僕も一緒にダイエットをつきあうよ」
と規定食をとりはじめたら、彼は私以上にみるみるうちに痩せて、ズボンはぶかぶか、
「ほら、バンドの穴を四つも飛ばして締めているのだよ」
と、家に来る人たちにバンドを見せて自慢していました。ところが、それはダイエットのせいではなく、胃癌の進行の始まりだったのです。もちろん二人とも病気に気づかず、無邪気によろこんでいたのですが、玄の食欲がなくなりはじめていたことに気づきませんでした。彼は痩せてくると大よろこびしていましたが、私のほうは、痩せてくると、なんだか力がなくなって、ふわふわと浮いているようで、まことに頼りないのです。規定食ではお腹も空くし、それにどちらかというと和食より洋食が好きで、チーズ、バター、お肉は牛もマトンも鴨も大好き、郷里の盛岡から送られてくるイクラやウニ、どれもこれもダイエットの敵みたいなものが大好きな私にとって、なるべくなら長続きはしたくないお食事でした。
私たち明治生まれは、飽食の時代に育った若者たちには想像もできないほど質素でしたし、食料難のころに染みついた、もったいないという考えと、感謝の心をなくさないものですから、少々カビが生えても、すぐに捨てたりしないで、カビを削って食べたりしますが、それでもお腹をこわさないのですから、そうとう野蛮にできているのです。カビというのは目にみえない部分にも生えているそうですが、昔の人はお餅のカビなんか、包丁で削って平気で食べていました。私なんか最近までカビが生えるから、いろいろわけのわからない添加物がなくて安心、などと思っていたほどです。
長岡輝子
明治四十一(一九〇八)年、盛岡市生まれ。東洋英和女学校をへて渡仏。帰国後の昭和六年、演出家の金杉惇郎と劇団テアトル。コメディを結成。翌年、金杉と結婚。金杉の死後、文学座に入り、演出家・女優として活躍。昭和十九年、実業家の篠原玄と再婚。戦後は舞台、映画、テレビに幅広く出演。昭和三十九年、ウェスカー「大麦入りのチキンスープ」で芸術祭文部大臣賞、四十五年、デュレンマット「メオテール」で紀伊國屋演劇賞を受賞。四十六年、文学座退座後は「長岡輝子の会」をはじめ、多彩な活動をつづける。勲四等瑞宝章、NHK放送文化賞を受ける。
明治四十一(一九〇八)年、盛岡市生まれ。東洋英和女学校をへて渡仏。帰国後の昭和六年、演出家の金杉惇郎と劇団テアトル。コメディを結成。翌年、金杉と結婚。金杉の死後、文学座に入り、演出家・女優として活躍。昭和十九年、実業家の篠原玄と再婚。戦後は舞台、映画、テレビに幅広く出演。昭和三十九年、ウェスカー「大麦入りのチキンスープ」で芸術祭文部大臣賞、四十五年、デュレンマット「メオテール」で紀伊國屋演劇賞を受賞。四十六年、文学座退座後は「長岡輝子の会」をはじめ、多彩な活動をつづける。勲四等瑞宝章、NHK放送文化賞を受ける。