どや!大阪のおばちゃん学
大阪には、「おばさま」や「おばさん」はおらず、皆「おばちゃん」である、といわれることがある。もちろん、それは少々オーバーな表現ではあるが、一九八九年にヒットした「大阪の迷惑駐車をなくそう」と訴える公共広告のCMでも、目立っていたのは存在感のある「おばちゃん」であった。
駐車違反をとがめられ、「なんで私だけがいわれやなあかんの。みんな停めてるやん」と毒づく演技などは、「おばさま」では決してないと思わせる。同種のCMに「おっちゃん」が登場するものもあったが、インパクトの度合いにおいては「おばちゃん」が勝っていた。
私は、現在、大阪市内にある相愛大学で三回生・四回生を対象に「現代大阪論」を講義している(※回生は、関西の大学での呼称)。受講している学生は言う。「一般におばちゃんといえば『強い』の語が連想されるが、『おばちゃん』の前に『大阪の』がつくと『最強』になる」と。別の学生は、「『おばちゃん』は、全国どこにでもいるはずなのに、『おばちゃん』というと『大阪』のイメージに結びついてしまうのはなぜだろう」と疑問を抱く。
学生(特に、女子学生)が、大阪のおばちゃんに関してレポートをし、感想を述べ、自分の将来を予見している。ひとつひとつが興味深いデータである。
大阪のおばちゃんといえば、いまや全国的に通用する「ブランド」であるといえなくもない。「東京の、仙台の、広島の、福岡のおばちゃん」というテーマでもってテレビ番組のコーナーはつくられなくても、大阪のおばちゃんなら格好がつく。
これは、東京のテレビ局が大阪を画一的に捉えているから、より強調されるといった側面もあるが、大阪のおばちゃんの強烈なキャラクターが、後押しをしているのはいうまでもない。
大阪のおばちゃんは、よくいえば「大胆」である。反転すれば「図々しい」。周りのことなどおかまいなし。我が道を行く。列を乱す。わずかなすき間であったとしても無理矢理に座る。
しかし、快活で親しみやすい。おせっかいだが、親切だ。愛想がよい。口は悪く、言葉は荒くても、愛情がある。うどんのだしのように温かく、味わい深い。よく動く。そして笑う。大阪のおばちゃんは、下町の人情そのものだ。とことん、人が好き。人情、愛情など、「情」編に特色が強く出る。
亭主にも、ぽんぽんとモノを言う。ホンネでぶつかる。といって尻に敷いているのとはちょっと異なる。たてる術を心得ている。亭主をしっかりもん(者)にみせるために、賢明に働く。やりくり上手だから、ケチにもなる。
こうみてくると、単に厚かましいおばちゃんが、大阪のおばちゃんではないのが分かってくる。うるさいだけのおばちゃんも、そうだ。
大阪のおばちゃんは、プラス、どこか人をホッとさせる愛嬌を持ち合わせている。料理がおいしければ、「ケッサクやな、これ」と誉める。その言葉が周囲に笑いと温もりを生む。これがなければ、「正当な大阪のおばちゃん」ではないのだ。
それゆえ大阪のおばちゃんは、愛すべき存在である。「おばちゃん」の表現を嫌う人もいるが、「愛すべきおばちゃん」との意味あいで用いている。
別の視点から大阪のおばちゃんを眺めると、日本人が置き忘れてきたものや日本人が不得手とするものを有しているのが分かる。この時代、それらを取り戻し、新たに手に入れるためにも、大阪のおばちゃんに学ぶべきものは少なくない。
つまり、大阪のおばちゃんは、元気と自信をなくし、混迷する日本を「救う」キーワードである。われわれは、大阪のおばちゃんをもっと知り、研究してみる必要があるだろう。関西経済界がインターネット上に開講する「サイバー適塾」に、「関西発・世界標準一〇〇選」がある。関西が誇る独創的な文化資源を選んだものだが、ここにも関西のおばちゃんは入っている。「文化資源」であるのだ。
おばちゃんは、テレビの番組や東西比較本の中で面白おかしく紹介されてはきたが、一冊の書としてまとめられたものはないのではなかろうか。そこで、大阪のおばちゃんに対するあまたある批判への擁護の視点をも加えつつ、「大阪のおばちゃん学」として取り組んでみた。
おばちゃんの特色や現象を取り上げ、なぜそうなるのかを考えた。おばちゃんの言動を観察し、考察することは、大阪や大阪人を分析することでもある。その意味から、この書は大阪のおばちゃんを通した「大阪学」でもある。
駐車違反をとがめられ、「なんで私だけがいわれやなあかんの。みんな停めてるやん」と毒づく演技などは、「おばさま」では決してないと思わせる。同種のCMに「おっちゃん」が登場するものもあったが、インパクトの度合いにおいては「おばちゃん」が勝っていた。
私は、現在、大阪市内にある相愛大学で三回生・四回生を対象に「現代大阪論」を講義している(※回生は、関西の大学での呼称)。受講している学生は言う。「一般におばちゃんといえば『強い』の語が連想されるが、『おばちゃん』の前に『大阪の』がつくと『最強』になる」と。別の学生は、「『おばちゃん』は、全国どこにでもいるはずなのに、『おばちゃん』というと『大阪』のイメージに結びついてしまうのはなぜだろう」と疑問を抱く。
学生(特に、女子学生)が、大阪のおばちゃんに関してレポートをし、感想を述べ、自分の将来を予見している。ひとつひとつが興味深いデータである。
大阪のおばちゃんといえば、いまや全国的に通用する「ブランド」であるといえなくもない。「東京の、仙台の、広島の、福岡のおばちゃん」というテーマでもってテレビ番組のコーナーはつくられなくても、大阪のおばちゃんなら格好がつく。
これは、東京のテレビ局が大阪を画一的に捉えているから、より強調されるといった側面もあるが、大阪のおばちゃんの強烈なキャラクターが、後押しをしているのはいうまでもない。
大阪のおばちゃんは、よくいえば「大胆」である。反転すれば「図々しい」。周りのことなどおかまいなし。我が道を行く。列を乱す。わずかなすき間であったとしても無理矢理に座る。
しかし、快活で親しみやすい。おせっかいだが、親切だ。愛想がよい。口は悪く、言葉は荒くても、愛情がある。うどんのだしのように温かく、味わい深い。よく動く。そして笑う。大阪のおばちゃんは、下町の人情そのものだ。とことん、人が好き。人情、愛情など、「情」編に特色が強く出る。
亭主にも、ぽんぽんとモノを言う。ホンネでぶつかる。といって尻に敷いているのとはちょっと異なる。たてる術を心得ている。亭主をしっかりもん(者)にみせるために、賢明に働く。やりくり上手だから、ケチにもなる。
こうみてくると、単に厚かましいおばちゃんが、大阪のおばちゃんではないのが分かってくる。うるさいだけのおばちゃんも、そうだ。
大阪のおばちゃんは、プラス、どこか人をホッとさせる愛嬌を持ち合わせている。料理がおいしければ、「ケッサクやな、これ」と誉める。その言葉が周囲に笑いと温もりを生む。これがなければ、「正当な大阪のおばちゃん」ではないのだ。
それゆえ大阪のおばちゃんは、愛すべき存在である。「おばちゃん」の表現を嫌う人もいるが、「愛すべきおばちゃん」との意味あいで用いている。
別の視点から大阪のおばちゃんを眺めると、日本人が置き忘れてきたものや日本人が不得手とするものを有しているのが分かる。この時代、それらを取り戻し、新たに手に入れるためにも、大阪のおばちゃんに学ぶべきものは少なくない。
つまり、大阪のおばちゃんは、元気と自信をなくし、混迷する日本を「救う」キーワードである。われわれは、大阪のおばちゃんをもっと知り、研究してみる必要があるだろう。関西経済界がインターネット上に開講する「サイバー適塾」に、「関西発・世界標準一〇〇選」がある。関西が誇る独創的な文化資源を選んだものだが、ここにも関西のおばちゃんは入っている。「文化資源」であるのだ。
おばちゃんは、テレビの番組や東西比較本の中で面白おかしく紹介されてはきたが、一冊の書としてまとめられたものはないのではなかろうか。そこで、大阪のおばちゃんに対するあまたある批判への擁護の視点をも加えつつ、「大阪のおばちゃん学」として取り組んでみた。
おばちゃんの特色や現象を取り上げ、なぜそうなるのかを考えた。おばちゃんの言動を観察し、考察することは、大阪や大阪人を分析することでもある。その意味から、この書は大阪のおばちゃんを通した「大阪学」でもある。
前垣和義
一九四六年生まれ。大阪研究家。相愛大学非常勤講師(現代大阪論)。日本笑い学会会員(笑いの講師団)。著書に『東京と大阪「味」のなるほど比較事典』(PHP文庫)、『おもろい「1坪商法」で食っていく』(インデックス・コミュニケーションズ)、『とことん知恵出す大阪商法』(明日香出版社)、『大阪くいだおれ学』(葉文館出版)、『大阪の大疑問』(共編著・扶桑社)ほか多数。
一九四六年生まれ。大阪研究家。相愛大学非常勤講師(現代大阪論)。日本笑い学会会員(笑いの講師団)。著書に『東京と大阪「味」のなるほど比較事典』(PHP文庫)、『おもろい「1坪商法」で食っていく』(インデックス・コミュニケーションズ)、『とことん知恵出す大阪商法』(明日香出版社)、『大阪くいだおれ学』(葉文館出版)、『大阪の大疑問』(共編著・扶桑社)ほか多数。