長岡輝子の四姉妹
――美しい年の重ね方
プロローグ
百歳と米寿のお祝いを兼ねた撮影会
長岡輝子と三姉妹、平均年齢九十一・五歳の四姉妹それぞれの人生について書きたいというと、輝子はまっさきに賛成してくれたが、この話が彼女から他の姉妹に伝えられると、姉の妙子、妹の春子、陽子の三人からいっせいに「待った」のサインが出された。
「輝ちゃんは、社会的に活躍して評価も受けているけれど、私たちはふつうの主婦で特別なことは何もしていないし、晴れがましく人様の前に出て行くようなことをするのはおこがましいから」
というのである。一番深く考え込んでしまったのが春子だった。春子は前年の春、自らの激動の半生を描いた著書『幸せに溺れず不幸に沈まずに』を自費出版して、エネルギーを使い果たしてしまっていて、気持ちが沈んでいたからである。でもじっくり考えてから、
「あなたが書くならいいわ。俎上の上の鯉になるわ」
と了承してくれた。出版すると決まったら
「写真撮影は一日も早いほうがいい。いくら元気だといっても、いつあやしくなるかわからないですよ」
といったのは、妙子の長男・井上震太郎だった。
「考えてみたら春子叔母は今年米寿ですよ。お誕生日は四月十八日。どうして僕が覚えているかというと、彼女の誕生日に東京が初めての空襲を受けた日だからですよ。どうせなら写真を撮るのは彼女の米寿の日にしたらどうですか」
と震太郎は提案をしてくれた。そして姉妹揃っての撮影の日は平成十五(二〇〇三)年四月十八日、若林春子の八十八歳のお誕生日に、百歳を迎えた井上妙子の藤沢の家に集まることになった。当日は百歳と米寿の二人をお祝いする、たいそう喜ばしい日になった。
四人は東京と藤沢に住んでいるとはいえ、姉妹全員が揃うのはなかなか容易なことではなく、輝子の『老いてなお、こころ愉しく美しく』の出版記念会のとき以来二年半ぶりのことである。
久しぶりに姉の妙子を訪ねて嬉しそうに抱き合う輝子はこのとき九十五歳、いつも姉たちに気を配る末妹の倉田陽子は八十三歳であった。
電話ではよく話し合っているものの久しぶりに会ったことが、この日の姉妹の一人ひとりの顔をいっそう晴れやかに輝かせたことはいうまでもない。年相応の身体の不自由さは多かれ少なかれあるものの、精神は衰えず、明朗で、いつもふんわりと温かく、四人姉妹が肩寄せあう姿は実に豊かで美しく、目眩めく光景であった。
昼食の後、春子のために用意された特別誂えのバースデーケーキを楽しんでから庭に出て、晩春のやわらかな夕照を背にこの本のカバーの写真が撮られた。そのとき、
「妙子姉ちゃん、私より先に死なないでね」
輝子は妙子の肩に頬を寄せ、童女のように甘えた声で囁いた。撮影中のことで、まわりは笑い声や掛け声で賑やかだったから聴力が弱くなった妙子には聞こえなかったのか、妙子の反応はなかったが、妙子が健在でいることが輝子の活力の源になっているように私には思えた。このとき輝子が、
「死なないでね」
といったのは、いつもならこの場で写真を撮っているはずの長岡宏のことが脳裏に浮かんだからかもしれなかった。
宏は姉妹の兄・光一の次男で写真家だったが、惜しいことに前月の三月に急逝していた。享年六十五、円熟期の盛りであった。叔母たちの著書に載せる写真や従妹弟たちのリサイタルのための写真のほとんどは宏の作品であり、この日の写真も、
「僕が撮らなければね」
と病床で楽しみにしていたという。もちろん誰も口にしなかったが、この四姉妹の笑顔は宏に手向けられたものにちがいなかった。
百歳と米寿のお祝いを兼ねた撮影会
長岡輝子と三姉妹、平均年齢九十一・五歳の四姉妹それぞれの人生について書きたいというと、輝子はまっさきに賛成してくれたが、この話が彼女から他の姉妹に伝えられると、姉の妙子、妹の春子、陽子の三人からいっせいに「待った」のサインが出された。
「輝ちゃんは、社会的に活躍して評価も受けているけれど、私たちはふつうの主婦で特別なことは何もしていないし、晴れがましく人様の前に出て行くようなことをするのはおこがましいから」
というのである。一番深く考え込んでしまったのが春子だった。春子は前年の春、自らの激動の半生を描いた著書『幸せに溺れず不幸に沈まずに』を自費出版して、エネルギーを使い果たしてしまっていて、気持ちが沈んでいたからである。でもじっくり考えてから、
「あなたが書くならいいわ。俎上の上の鯉になるわ」
と了承してくれた。出版すると決まったら
「写真撮影は一日も早いほうがいい。いくら元気だといっても、いつあやしくなるかわからないですよ」
といったのは、妙子の長男・井上震太郎だった。
「考えてみたら春子叔母は今年米寿ですよ。お誕生日は四月十八日。どうして僕が覚えているかというと、彼女の誕生日に東京が初めての空襲を受けた日だからですよ。どうせなら写真を撮るのは彼女の米寿の日にしたらどうですか」
と震太郎は提案をしてくれた。そして姉妹揃っての撮影の日は平成十五(二〇〇三)年四月十八日、若林春子の八十八歳のお誕生日に、百歳を迎えた井上妙子の藤沢の家に集まることになった。当日は百歳と米寿の二人をお祝いする、たいそう喜ばしい日になった。
四人は東京と藤沢に住んでいるとはいえ、姉妹全員が揃うのはなかなか容易なことではなく、輝子の『老いてなお、こころ愉しく美しく』の出版記念会のとき以来二年半ぶりのことである。
久しぶりに姉の妙子を訪ねて嬉しそうに抱き合う輝子はこのとき九十五歳、いつも姉たちに気を配る末妹の倉田陽子は八十三歳であった。
電話ではよく話し合っているものの久しぶりに会ったことが、この日の姉妹の一人ひとりの顔をいっそう晴れやかに輝かせたことはいうまでもない。年相応の身体の不自由さは多かれ少なかれあるものの、精神は衰えず、明朗で、いつもふんわりと温かく、四人姉妹が肩寄せあう姿は実に豊かで美しく、目眩めく光景であった。
昼食の後、春子のために用意された特別誂えのバースデーケーキを楽しんでから庭に出て、晩春のやわらかな夕照を背にこの本のカバーの写真が撮られた。そのとき、
「妙子姉ちゃん、私より先に死なないでね」
輝子は妙子の肩に頬を寄せ、童女のように甘えた声で囁いた。撮影中のことで、まわりは笑い声や掛け声で賑やかだったから聴力が弱くなった妙子には聞こえなかったのか、妙子の反応はなかったが、妙子が健在でいることが輝子の活力の源になっているように私には思えた。このとき輝子が、
「死なないでね」
といったのは、いつもならこの場で写真を撮っているはずの長岡宏のことが脳裏に浮かんだからかもしれなかった。
宏は姉妹の兄・光一の次男で写真家だったが、惜しいことに前月の三月に急逝していた。享年六十五、円熟期の盛りであった。叔母たちの著書に載せる写真や従妹弟たちのリサイタルのための写真のほとんどは宏の作品であり、この日の写真も、
「僕が撮らなければね」
と病床で楽しみにしていたという。もちろん誰も口にしなかったが、この四姉妹の笑顔は宏に手向けられたものにちがいなかった。
鈴木美代子
昭和九(一九三四)年、東京神田生まれ。立教大学英米文学科卒業。昭和三十五(一九六〇)年、文学座編集部に在籍中、NHK教育テレビに幼児向けの放送台本を執筆。結婚後、三男一女の子育てで十年あまり筆を絶ったが、長岡輝子のすすめにより、青美代子のペンネームでNHKラジオ「お話でてこい」に創作童話を書く。五十年近くにわたって師と仰ぐ長岡輝子と、長岡家に人々との親しい関係をつちかってきたからこそ、この本ができたといっても過言ではない。おもな著書に『神田っ子』『三つねたらひっこし』(太平出版社)、共著に『お話でてこい』(金の星社)などがある。昭和五十七年、離婚後は自宅で英語塾を開いて現在にいたる。
昭和九(一九三四)年、東京神田生まれ。立教大学英米文学科卒業。昭和三十五(一九六〇)年、文学座編集部に在籍中、NHK教育テレビに幼児向けの放送台本を執筆。結婚後、三男一女の子育てで十年あまり筆を絶ったが、長岡輝子のすすめにより、青美代子のペンネームでNHKラジオ「お話でてこい」に創作童話を書く。五十年近くにわたって師と仰ぐ長岡輝子と、長岡家に人々との親しい関係をつちかってきたからこそ、この本ができたといっても過言ではない。おもな著書に『神田っ子』『三つねたらひっこし』(太平出版社)、共著に『お話でてこい』(金の星社)などがある。昭和五十七年、離婚後は自宅で英語塾を開いて現在にいたる。