プロ野球をここまでダメにした9人
第1章 堀内恒夫は巨人の監督になってよかったのか
堀内では巨人もプロ野球も救えない
巨人軍監督として堀内は巨人を、そしてプロ野球を救えるだろうか。
このように見てくると、巨人を救うことさえできそうもない。歴代の巨人監督にあった風格がない(あるいは、何歳になっても風格が出てこない)。その男が日本のプロ野球を代表することはできない。
93年に2回目のコーチに就任して以来、球団フロントや球界関係者にはていねいな言葉を使い、自分のプロ野球像や理想を語れるようになったが、依然、担当記者には「オマエ」呼ばわりがつづき、選手には、「オイ、コラ」を連発している。
巨人の監督では、長嶋、藤田、王とこんなことはなかった。ONのいる時代には、その陰に隠れて「悪太郎」「小天狗」ですんだことも、自分がチームのトップになったいまでは通用しない。
しかも、気ままに「悪太郎」を通してきた彼には、ともに巨人のために働こうという仲間がいない。人間的な魅力がないから、周囲に人が集まらないのだ。そうでなければ、速くから監督候補だった彼の周囲には自薦他薦の参謀、コーチ役が集まるはずだが、それもない。悪太郎は自分を磨けず、巨人も代表できず、そのために、巨人はいま球団史上最大の危機におちいっている(巨人ファンの話だが、テレビのニュース番組で、中越地震の募金箱に千円札を投じる堀内の姿が映ったという。ファンは「“大”巨人の監督なら、せめて一万円は入れてくれ。テレビカメラが映しているのに。情けない」となげいた。ファンはいつも見ている)。
球界を代表できない人間に巨人の監督はできない。それは球団首脳の誰もが感じていることだろう。
第2章 虚像 清原和博
清原が抜けて優勝した西武
97年、清原が巨人に移ると、西武はそれを待っていたかのように優勝し、前年優勝の巨人は4位まで落ちた。
東尾西部が若返りに成功し優勝したのは、「チームワークを乱す清原がいなくなったからだ」と言われた。それを聞いて、清原はどう思ったろうか。
西武はすでに清原後を視野に入れ、5カ年計画をつくってチームづくりをしていた。計画のスタートは彼の力が極端に落ちた93年からだ(この年のドラフトで、1位石井貴、3位松井稼頭央、94年に2位小関竜也、3位西口文也、4位高木浩之を指名している)。
97年の成功はそのモデルチェンジ策が実ったもので、日本シリーズで対戦したヤクルト野村監督が「短いあいだによくもこれだけチームを変えられたもんや」と関心するほどだった。
清原の代わりに四番に入った鈴木健は打率・315をマークした。96年、清原が得点圏打率・248とチャンスに弱い四番だったのに対し、鈴木のそれは・375だ。
四番清原が改革をはばんでいたことが証明されてしまった。
清原が入った巨人の関係者はチームワークへの影響を心配した。巨人にも西武とのさまざまなルートがある。そこから伝わってくる情報は「清原はチーム(西武)ですでに浮いていた。練習も勝手気ままなので、首脳陣も手を焼いていた」というものだ。
フロントは「さぼり病が若手選手に伝染するのではないかと心配した」のだが、「ウチには猛練習の伝統があるから、それはないと思う」と気を休めた。
このとき、巨人には監督の長嶋のほか、コーチ陣にヘッド格の堀内恒夫、守備総合の土井正三、外野守備走塁の高田繁と巨人のV9戦士がいた。彼らは清原を「一から鍛えなおす」つもりだったが、実際に清原を見ると、29歳の身体は「ボロボロで、鍛えようにもそのための体力がなかった。ノック一つするにしても、肉離れを心配しなければならなかった」から、満足な練習もさせられなかった。清原もそれをいいことに、巨人式トレーニングを拒否して、身体づくりに打ち込むふうでもなかった。
清原は西武で、なにをしていたのだろう。
第3章 球界のドン 渡邉恒雄
読賣新聞会長の渡邉恒夫は96年12月に巨人軍のオーナーになった。
オーナーなら、自チームを強くしたいと考えるのは当然のことだ。フロントに人材を送り込み、強化資金を投入し、ときにはみずから選手を叱咤激励する。それを否定する野球ファンはいない。
ほとんどのオーナーは資金がないことに頭を悩ましているが、巨人のオーナーにその悩みはない。潤沢であまるほどだ。そのカネを使って選手を獲得し、他球団の選手がうらやむ年俸を払って選手を定着させることができる。
当然、他球団とは力に差ができ、ファンは一強五弱、一強十一弱の状態にあき、ちまたには「巨人横暴」の声があふれ、プロ野球人気は下火になった……のなら話はわかるが、実際は違う。
渡邉のオーナー在任8年間で優勝は2回だけ。優勝率は2割5分でしかない。
ペナントレースは6球団での争いだから、6年に1度の優勝は当然。3年に1度の優勝で並、2年に1度なら優秀で、それ以上勝って3連覇などがあれば、オーナーも有能と認められる。とすれば、渡邉はオーナーとしては並み以下だ。なぜ、勝てなかったのだろう。
渡邉が資金、人材を投入してもいっこうに勝てなかった、失敗の原因をまず明らかにする。
堀内では巨人もプロ野球も救えない
巨人軍監督として堀内は巨人を、そしてプロ野球を救えるだろうか。
このように見てくると、巨人を救うことさえできそうもない。歴代の巨人監督にあった風格がない(あるいは、何歳になっても風格が出てこない)。その男が日本のプロ野球を代表することはできない。
93年に2回目のコーチに就任して以来、球団フロントや球界関係者にはていねいな言葉を使い、自分のプロ野球像や理想を語れるようになったが、依然、担当記者には「オマエ」呼ばわりがつづき、選手には、「オイ、コラ」を連発している。
巨人の監督では、長嶋、藤田、王とこんなことはなかった。ONのいる時代には、その陰に隠れて「悪太郎」「小天狗」ですんだことも、自分がチームのトップになったいまでは通用しない。
しかも、気ままに「悪太郎」を通してきた彼には、ともに巨人のために働こうという仲間がいない。人間的な魅力がないから、周囲に人が集まらないのだ。そうでなければ、速くから監督候補だった彼の周囲には自薦他薦の参謀、コーチ役が集まるはずだが、それもない。悪太郎は自分を磨けず、巨人も代表できず、そのために、巨人はいま球団史上最大の危機におちいっている(巨人ファンの話だが、テレビのニュース番組で、中越地震の募金箱に千円札を投じる堀内の姿が映ったという。ファンは「“大”巨人の監督なら、せめて一万円は入れてくれ。テレビカメラが映しているのに。情けない」となげいた。ファンはいつも見ている)。
球界を代表できない人間に巨人の監督はできない。それは球団首脳の誰もが感じていることだろう。
第2章 虚像 清原和博
清原が抜けて優勝した西武
97年、清原が巨人に移ると、西武はそれを待っていたかのように優勝し、前年優勝の巨人は4位まで落ちた。
東尾西部が若返りに成功し優勝したのは、「チームワークを乱す清原がいなくなったからだ」と言われた。それを聞いて、清原はどう思ったろうか。
西武はすでに清原後を視野に入れ、5カ年計画をつくってチームづくりをしていた。計画のスタートは彼の力が極端に落ちた93年からだ(この年のドラフトで、1位石井貴、3位松井稼頭央、94年に2位小関竜也、3位西口文也、4位高木浩之を指名している)。
97年の成功はそのモデルチェンジ策が実ったもので、日本シリーズで対戦したヤクルト野村監督が「短いあいだによくもこれだけチームを変えられたもんや」と関心するほどだった。
清原の代わりに四番に入った鈴木健は打率・315をマークした。96年、清原が得点圏打率・248とチャンスに弱い四番だったのに対し、鈴木のそれは・375だ。
四番清原が改革をはばんでいたことが証明されてしまった。
清原が入った巨人の関係者はチームワークへの影響を心配した。巨人にも西武とのさまざまなルートがある。そこから伝わってくる情報は「清原はチーム(西武)ですでに浮いていた。練習も勝手気ままなので、首脳陣も手を焼いていた」というものだ。
フロントは「さぼり病が若手選手に伝染するのではないかと心配した」のだが、「ウチには猛練習の伝統があるから、それはないと思う」と気を休めた。
このとき、巨人には監督の長嶋のほか、コーチ陣にヘッド格の堀内恒夫、守備総合の土井正三、外野守備走塁の高田繁と巨人のV9戦士がいた。彼らは清原を「一から鍛えなおす」つもりだったが、実際に清原を見ると、29歳の身体は「ボロボロで、鍛えようにもそのための体力がなかった。ノック一つするにしても、肉離れを心配しなければならなかった」から、満足な練習もさせられなかった。清原もそれをいいことに、巨人式トレーニングを拒否して、身体づくりに打ち込むふうでもなかった。
清原は西武で、なにをしていたのだろう。
第3章 球界のドン 渡邉恒雄
読賣新聞会長の渡邉恒夫は96年12月に巨人軍のオーナーになった。
オーナーなら、自チームを強くしたいと考えるのは当然のことだ。フロントに人材を送り込み、強化資金を投入し、ときにはみずから選手を叱咤激励する。それを否定する野球ファンはいない。
ほとんどのオーナーは資金がないことに頭を悩ましているが、巨人のオーナーにその悩みはない。潤沢であまるほどだ。そのカネを使って選手を獲得し、他球団の選手がうらやむ年俸を払って選手を定着させることができる。
当然、他球団とは力に差ができ、ファンは一強五弱、一強十一弱の状態にあき、ちまたには「巨人横暴」の声があふれ、プロ野球人気は下火になった……のなら話はわかるが、実際は違う。
渡邉のオーナー在任8年間で優勝は2回だけ。優勝率は2割5分でしかない。
ペナントレースは6球団での争いだから、6年に1度の優勝は当然。3年に1度の優勝で並、2年に1度なら優秀で、それ以上勝って3連覇などがあれば、オーナーも有能と認められる。とすれば、渡邉はオーナーとしては並み以下だ。なぜ、勝てなかったのだろう。
渡邉が資金、人材を投入してもいっこうに勝てなかった、失敗の原因をまず明らかにする。
工藤健策
一九四二年横浜生まれ。明治大学卒業後ラジオ局入社。アナウンサー。ディレクターとして、野球、ラグビー、サッカー等を取材。一九八九年度日本経済新聞・テレビ東京主催のビジネスストーリー大賞受賞。一九九二年度NHK「演芸台本コンクール」佳作入賞。著書に『名将たちはなぜ失敗したか』(草思社)『江川の四試合』『がんばれ!!ニッポンプロ野球』『Jリーグ崩壊』(以上、総合法令出版)『小説 安土城炎上』(PHP文庫)などがある。
一九四二年横浜生まれ。明治大学卒業後ラジオ局入社。アナウンサー。ディレクターとして、野球、ラグビー、サッカー等を取材。一九八九年度日本経済新聞・テレビ東京主催のビジネスストーリー大賞受賞。一九九二年度NHK「演芸台本コンクール」佳作入賞。著書に『名将たちはなぜ失敗したか』(草思社)『江川の四試合』『がんばれ!!ニッポンプロ野球』『Jリーグ崩壊』(以上、総合法令出版)『小説 安土城炎上』(PHP文庫)などがある。