チャイナハンズ
――元駐中米国大使の回想1916〜1991
日本語版への序文
本書は、過去九十年間に米国が中国にどう関わってきたかをテーマにしている。それは中国の歴史に関する万巻の書を分析材料とするものではない。むしろ、個人的体験を純化していく中で、米国と中国という二大当事者の関係の傾向、変動、さらにそれぞれの功罪をよりよく理解しようとする試みである。
物語は一九一六年に一人の若い米国人が冒険を求めて異国の地に踏み出すところから始まる。フランク・リリー二世は、スタンダード石油の販売拡張員として中国へやって来た。彼は外国勢力が我が物顔に振る舞っていた時代の中国に生きた。それは砲艦、聖書と灯油缶、あるいは兵士、宣教師、ビジネスマンに象徴された時代だった。当時の中国には租界があり、治外法権をたてにした領事裁判所があり、上海と天津には外国の海兵隊や陸軍部隊が駐留していた。夏期には、中国大陸に沿って米太平洋艦隊の巡洋艦や潜水艦が遊弋し、喫水の浅い砲艦が揚子江をパトロールした。
このような保護下で、私の父は母国の田舎育ちの娘を娶り、子ども四人(うち三人は中国生まれ)をもうけた。そして家族とともに、ドイツと日本の影響が色濃かった美しい海辺の都市、青島で十年間を過ごすことになる。
暮らしやすい青島での生活は、外国人にとって心休まるものだった。そこは軍閥抗争、飢饉、洪水、大量死の渦中にあった中国では、惨めさと苦しみの海から切り離された陸のオアシスだった。外国人たちは王侯気取りで君臨していたが、中国人にとっては、一八四〇年のアヘン戦争、一九〇〇年の義和団の乱の敗北が招いた、外国人への屈従の時代だった。中国人は強烈な屈辱感と被害者意識を募らせ、外国人に対して根深い嫌悪感、不信感を抱くようになった。
一九三七年に日本が中国に侵攻し、広大な地域を占領すると事態は変わった。欧米人はもはや中国の支配的な勢力ではなかった。日本人がそれに取って代わり、欧米人を見下した。そしてこれが大混乱の幕開けとなった。抗日戦争、内戦、大洪水、飢饉、インフレーションと災難が重なり、かろうじて残っていた中国的統治システムは全面崩壊した。
この舞台に、私の長兄、若くて理想主義に燃える米軍中尉、フランク・リリー三世が登場する。彼は青島という安寧な別天地で育ち、一転して腐敗と臆病と偽りにまみれた中国の現実に身を置くことになる。彼は同胞に拷問される中国人の絶叫を聞き、心に大きな傷を負ったが、このような時代背景から生じたのが中国人の混乱に対する極度の恐怖心と、規律や秩序への強い願望だった。フランクは戦後、日本へ派遣され、彼が見聞きしていた日本なるものが破壊し尽くされた広島の近郊、呉で勤務する。フランクは日本の指導者と軍部の攻撃性と高慢さを憎悪しつつも、一方で日本の美しさ、文化、秩序立った暮らしぶりを高く評価していた。彼は一九四六年五月、日本で自らの命を絶った。
一九四九年の国家統一により、中国の大混乱期は、共産党が強いた統制と過酷な統治によって終わった。中国の共産主義者は、北京を中心とする集権体制を打ち立てた。共産党が米国の資産を没収し、ソ連一辺倒をあからさまにする中で米中間の緊張は高まった。折から北朝鮮はソ連と中国の後押しを得て韓国を併呑するべく、劇的な南下攻撃を仕掛けた。朝鮮半島で戦争が勃発し、中国と米国はいずれも巻き込まれた。
米中間の敵対時代が始まった。中国はソ連とのあいだで、日本を米国の手先として敵視する条約を結んだ。中国と直接交戦するようになった米国は、陽動作戦として中国南部と西部に第二戦線を開き、中国を攪乱するために大規模な準軍事作戦を展開した。米国は、共産党との内戦に敗れた国民党が台湾撤退時に残したとされる地下ゲリラを利用しようとした。それと同時に中国政府に揺さぶりをかけようとした。私、ジェームズ・リリーは、米中央情報局(CIA)が発動した「熱い戦争」の兵士としてこの戦線に赴くことになる。
対中攪乱工作チームが中国東北部、台湾海峡の対岸ならびに南西部に投入された。これに対し、中国は東南アジアの武装革命運動を物心両面で支援していた。米国、中国いずれもたいした成果を上げることはできなかったが、お互いへの敵愾心をいっそう募らせた。私は、東南アジア、台湾および日本で、秘密工作ではなく主に中国情報の収集に従事した。実在しないスパイ網から偽情報を売り込まれるといった試行錯誤を経て、情報収集の実績を上げられるようになった。
一九五〇年から七一年にかけての米中敵対時代は、ついに融和と関係改善へと局面が転換した。ニクソン、キッシンジャー、毛沢東、周恩来らによる事態打開は、アジアの政治力学を変え、私もこの和解の過程で一役買うことになった。私は中国側に正体を明らかにした情報官として、一九七三年に初のCIA北京支局長に就任した。米中間の共通利益が、両国をソ連に対する安全保障面での協力に導いた。再び石油会社を先頭に米国企業の中国進出が盛んになった。私は経済交流の波に乗って、中国と海底油田開発で協力する企業に一時、職を得た。
トウ小平指導下の中国は、一九七八年に抜本的な経済改革に乗り出した。当時、民間人だったジョージ・ブッシュはトウ小平の改革を強く支持した。この時点で私は情報畑から外交畑に転進し、台湾との緊密な関係を維持する一方で中国との幅広い関係を築く作業の一翼を担った。
本書は、過去九十年間に米国が中国にどう関わってきたかをテーマにしている。それは中国の歴史に関する万巻の書を分析材料とするものではない。むしろ、個人的体験を純化していく中で、米国と中国という二大当事者の関係の傾向、変動、さらにそれぞれの功罪をよりよく理解しようとする試みである。
物語は一九一六年に一人の若い米国人が冒険を求めて異国の地に踏み出すところから始まる。フランク・リリー二世は、スタンダード石油の販売拡張員として中国へやって来た。彼は外国勢力が我が物顔に振る舞っていた時代の中国に生きた。それは砲艦、聖書と灯油缶、あるいは兵士、宣教師、ビジネスマンに象徴された時代だった。当時の中国には租界があり、治外法権をたてにした領事裁判所があり、上海と天津には外国の海兵隊や陸軍部隊が駐留していた。夏期には、中国大陸に沿って米太平洋艦隊の巡洋艦や潜水艦が遊弋し、喫水の浅い砲艦が揚子江をパトロールした。
このような保護下で、私の父は母国の田舎育ちの娘を娶り、子ども四人(うち三人は中国生まれ)をもうけた。そして家族とともに、ドイツと日本の影響が色濃かった美しい海辺の都市、青島で十年間を過ごすことになる。
暮らしやすい青島での生活は、外国人にとって心休まるものだった。そこは軍閥抗争、飢饉、洪水、大量死の渦中にあった中国では、惨めさと苦しみの海から切り離された陸のオアシスだった。外国人たちは王侯気取りで君臨していたが、中国人にとっては、一八四〇年のアヘン戦争、一九〇〇年の義和団の乱の敗北が招いた、外国人への屈従の時代だった。中国人は強烈な屈辱感と被害者意識を募らせ、外国人に対して根深い嫌悪感、不信感を抱くようになった。
一九三七年に日本が中国に侵攻し、広大な地域を占領すると事態は変わった。欧米人はもはや中国の支配的な勢力ではなかった。日本人がそれに取って代わり、欧米人を見下した。そしてこれが大混乱の幕開けとなった。抗日戦争、内戦、大洪水、飢饉、インフレーションと災難が重なり、かろうじて残っていた中国的統治システムは全面崩壊した。
この舞台に、私の長兄、若くて理想主義に燃える米軍中尉、フランク・リリー三世が登場する。彼は青島という安寧な別天地で育ち、一転して腐敗と臆病と偽りにまみれた中国の現実に身を置くことになる。彼は同胞に拷問される中国人の絶叫を聞き、心に大きな傷を負ったが、このような時代背景から生じたのが中国人の混乱に対する極度の恐怖心と、規律や秩序への強い願望だった。フランクは戦後、日本へ派遣され、彼が見聞きしていた日本なるものが破壊し尽くされた広島の近郊、呉で勤務する。フランクは日本の指導者と軍部の攻撃性と高慢さを憎悪しつつも、一方で日本の美しさ、文化、秩序立った暮らしぶりを高く評価していた。彼は一九四六年五月、日本で自らの命を絶った。
一九四九年の国家統一により、中国の大混乱期は、共産党が強いた統制と過酷な統治によって終わった。中国の共産主義者は、北京を中心とする集権体制を打ち立てた。共産党が米国の資産を没収し、ソ連一辺倒をあからさまにする中で米中間の緊張は高まった。折から北朝鮮はソ連と中国の後押しを得て韓国を併呑するべく、劇的な南下攻撃を仕掛けた。朝鮮半島で戦争が勃発し、中国と米国はいずれも巻き込まれた。
米中間の敵対時代が始まった。中国はソ連とのあいだで、日本を米国の手先として敵視する条約を結んだ。中国と直接交戦するようになった米国は、陽動作戦として中国南部と西部に第二戦線を開き、中国を攪乱するために大規模な準軍事作戦を展開した。米国は、共産党との内戦に敗れた国民党が台湾撤退時に残したとされる地下ゲリラを利用しようとした。それと同時に中国政府に揺さぶりをかけようとした。私、ジェームズ・リリーは、米中央情報局(CIA)が発動した「熱い戦争」の兵士としてこの戦線に赴くことになる。
対中攪乱工作チームが中国東北部、台湾海峡の対岸ならびに南西部に投入された。これに対し、中国は東南アジアの武装革命運動を物心両面で支援していた。米国、中国いずれもたいした成果を上げることはできなかったが、お互いへの敵愾心をいっそう募らせた。私は、東南アジア、台湾および日本で、秘密工作ではなく主に中国情報の収集に従事した。実在しないスパイ網から偽情報を売り込まれるといった試行錯誤を経て、情報収集の実績を上げられるようになった。
一九五〇年から七一年にかけての米中敵対時代は、ついに融和と関係改善へと局面が転換した。ニクソン、キッシンジャー、毛沢東、周恩来らによる事態打開は、アジアの政治力学を変え、私もこの和解の過程で一役買うことになった。私は中国側に正体を明らかにした情報官として、一九七三年に初のCIA北京支局長に就任した。米中間の共通利益が、両国をソ連に対する安全保障面での協力に導いた。再び石油会社を先頭に米国企業の中国進出が盛んになった。私は経済交流の波に乗って、中国と海底油田開発で協力する企業に一時、職を得た。
トウ小平指導下の中国は、一九七八年に抜本的な経済改革に乗り出した。当時、民間人だったジョージ・ブッシュはトウ小平の改革を強く支持した。この時点で私は情報畑から外交畑に転進し、台湾との緊密な関係を維持する一方で中国との幅広い関係を築く作業の一翼を担った。
ジェームズ・R・リリー
1928年、スタンダード石油の市場開拓員だった父の任地、中国・青島に生まれ、51年、イェール大学卒業後、CIA(米国中央情報局)情報官となり、日本、台湾、香港、フィリピン、カンボジア、タイ、ラオス、中国に赴任。準軍事工作員の訓練、秘密工作活動に従事する。ニクソン訪中後の73年から2年間、CIA北京事務所長。CIA退官後、80年、NSC(国家安全保障会議)東アジア担当顧問。82年〜84年、米国在台湾協会台北所長(大使に相当)。86年〜88年、駐韓大使。89年、駐中大使となり、天安門事件に関与(〜91年)。中国・台湾・韓国3カ国の大使職をすべてつとめた米国唯一の外交官。国防総省次官補を経たのち、現在、保守系の有力シンクタンク、AEI(アメリカン・エンタープライズ研究所)上級研究員。
ジェフリー・リリー
ジェームズ・R・リリーの3男。ジャーナリスト、教師。『ウォールストリート・ジャーナル』等に寄稿。現在、中央アジア・キルギスの民主化プロジェクトに参画。
西倉一喜
1947年、埼玉県生まれ。72年、東京外国語大学中国語学科卒業後、共同通信入社。岡山、神戸支局を経て外信部へ。80年から1年間、北京留学。マニラ、北京・ウランバートル、ワシントン各支局長を歴任。編集委員兼論説委員をつとめ、2004年に退社。現在、龍谷大学法学部教授(中国、アジア政治論)。83年、『中国・グラスルーツ』(めこん)で第15回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。その他の著書に『アジア未来』(共同通信KK)など。
1928年、スタンダード石油の市場開拓員だった父の任地、中国・青島に生まれ、51年、イェール大学卒業後、CIA(米国中央情報局)情報官となり、日本、台湾、香港、フィリピン、カンボジア、タイ、ラオス、中国に赴任。準軍事工作員の訓練、秘密工作活動に従事する。ニクソン訪中後の73年から2年間、CIA北京事務所長。CIA退官後、80年、NSC(国家安全保障会議)東アジア担当顧問。82年〜84年、米国在台湾協会台北所長(大使に相当)。86年〜88年、駐韓大使。89年、駐中大使となり、天安門事件に関与(〜91年)。中国・台湾・韓国3カ国の大使職をすべてつとめた米国唯一の外交官。国防総省次官補を経たのち、現在、保守系の有力シンクタンク、AEI(アメリカン・エンタープライズ研究所)上級研究員。
ジェフリー・リリー
ジェームズ・R・リリーの3男。ジャーナリスト、教師。『ウォールストリート・ジャーナル』等に寄稿。現在、中央アジア・キルギスの民主化プロジェクトに参画。
西倉一喜
1947年、埼玉県生まれ。72年、東京外国語大学中国語学科卒業後、共同通信入社。岡山、神戸支局を経て外信部へ。80年から1年間、北京留学。マニラ、北京・ウランバートル、ワシントン各支局長を歴任。編集委員兼論説委員をつとめ、2004年に退社。現在、龍谷大学法学部教授(中国、アジア政治論)。83年、『中国・グラスルーツ』(めこん)で第15回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。その他の著書に『アジア未来』(共同通信KK)など。