頭がいい人の早わかり現代の論点
はじめに 本書の正しい使い方
「頭がいい人」とはどんな人か?
本書の目的は、「本当に頭がいい人」を目指すことにある。これによって読者の知力を高めたい、というのが私の大いなる目論見だ。
「本を一冊読んだくらいで賢くなるわけはない」と鼻で笑う人もいるだろう。こういう人はIQや偏差値、学歴のような数値化された指標でしか、頭のよし悪しを判断できないのではないだろうか。確かにIQ二〇〇ともいわれるアメリカのライス国務長官は一見恐ろしく見えるくらい理知的だし、東大卒の国家官僚にはなかなかどうして優秀な人が多い。しかし、いくらIQ値が高くても、酒やギャンブルに溺れて身を持ち崩す人もいれば、一流大学を出てニートのまま時を過ごす人もいる。これはきわめて頭の悪い生き方だ。
私がいう「頭のよさ」とは、生まれつきの知能レベルや学歴とはまったく関係がない。社会生活を送る中で、磨かれ、成長していく能力のことなのだ。まず、人の話していることをきちんと理解しながら、話すことができる。つまり知的な会話ができるコミュニケーション能力が高いこと。さらに、周りの状況やものごとを把握して、それに対して賛成か反対かをしっかり主張することのできる、いわゆるプレゼンテーション能力の高い人こそ、私は「頭がいい」のだと考えている。そして、こうした力は本人の努力次第でいくらでも高めることができるはずだ。
どうすれば頭がよくなれるか?
私は今まで、「頭をよく見せる」ための本をたくさん書いてきた。
これに対しては「外面を整えるだけで、中身が伴わないのでは無意味だ」という批判もある。正論だし、実は私も同じ意見だ。内面が貧しければ、おのずとそれが外側にも表れてしまう。外面を取り繕うだけに終わっては、実際にはバカであることが他人にすぐバレるだろう。これまでの著作で私が提案してきたのは、見せかけを整えるだけでいい、ということではない。本当に頭をよくするための順番として、まずは頭がいい人だと思われるように、外面から整えるべきだと言いつづけてきたのだ。
なぜ、内面を磨くことから始めず、外面から入るのか。理由は三つある。
第一に、内面は見えにくい。
だからどんなに努力をしても、それによってどのくらい内面が充実したかを推し量ることは困難だ。これに比べて、外面を整えるのは比較的たやすい。ちょっとした話し方のコツを覚えるだけで、他人からの評価も違ってくる。「デキる奴」と思われれば、おのずと「もっとがんばろう」という気持ちにもなるだろう。簡単なことからスタートして、だんだんと高度なレベルに上げていく。これは学習の基本なのだ。
二つ目が、「黙っていたら誰も評価してくれない」ということだ。
外見を整えることに対して、これまで日本人はあまりにも無頓着だった。何はともあれ中身が先という考えが支配的だった。「沈然は金」とか「あうんの呼吸」といった日本人独特の感性によりかかって、中身さえ磨いておけば、黙っていても他人は評価してくれると思いこんでいた。しかし、グローバル化時代を迎えて、言葉や行動ではっきりと自分の能力をアピールできなければ、無能とみなされるようになった。能ある鷹は爪を隠さないし、たとえ能力が若干劣っていても、頭がいいと思われた者のほうが高く取り上げられるようになってきた。今や、豊富な知識や見識を持っていても、適切な形で他者に披瀝できなければ宝の持ち腐れだ。だからこそ、「見せる」テクニックが重要なのだ。
理由の三つ目は、私自身の経験による。
私はこれまでに数限りない小論文の添削を行ってきた。ところで、従来の小論文指導は、あくまで内面、つまりべースとなる知識を蓄えることに主眼が置かれてきた。しかし、私はまず書き方の形式を教えて、「型通りに書け。中身は後で整えればいい」と指導することにした。すると、それまで答案用紙を前に頭をひねるばかりだった学生たちが、すらすらと記述するようになっていったのだ。小論文にかぎったことではない。話し方にしても同じことだ。話をするための形式を知り、そのためのトレーニングを積まなければ、何も話すことはできない。
本当に頭がよくなるためには、まず頭をよく見せるように外面を整える。その後、じっくりと知識を蓄え、内面を磨けばいい、と私は考えている。
頭をよく見せるためには「四部構成」で話す
知性的に見せるための話し方については、多くの著作で詳細に記してきたから、ここでは簡単にそのおさらいだけしておく。
「四部構成」で論理的に話を進めるのだ。
第一部 問題提起 ものごとに対する考え方は、たいていは賛成か反対かのどちらかに集約される。だからまずはある論点に対して「イエス・ノーのどちらなのか」がわかるように問題提起をすることから始める。「太平洋戦争は本当に間違っていたんでしょうか?.」という具合だ。
第二部 意見提示 ここで論点に関する賛否両論を踏まえながら、客観的に自分の意見をまとめていく。相手が自分と相反する立場ならば「たしかにそのとおりですね。こういう考え方もありますからね。しかし、一方ではこんな見解もありますよ」というように。この際、自分の意見に固執するあまり、他者の感情を損ねてしまわないよう十分注意する。「たしかに〜」「しかし〜」を繰り返す過程で、時間稼ぎをしながら相手の反応を読みとる。顔色をうかがうのだ。そして、反論しないことが得策だと判断したら、話をうやむやにしてしまうか、あっさりと相手の意見に迎合してしまえばよい。知的に見える話し方は、あくまでコミュニケーションを円滑に進めるためのものであって、けんかをするためのものではない。とくにビジネスマンは相手によって多少なりとも自分の意見を変えざるを得ないということをしっかり覚えておいてほしい。自分の意見を強硬に主張して、徹底的に相手を論駁しても許されるのは、思想家や政治家くらいなのだ。
第三部 展開 ここで自分の意見とその根拠を明らかにする。「私はこう思う。その根拠は三つあります」というように論理的かつ整然と語ることで、相手もどんなことを言い出すのか関心を持ってくれるだろう。
第四部 結論 最後に、念を押すために「私の意見はだからこうなるんです」と結論づける。
このように「型」にのっとった話し方をすることで、まず頭がよく見えるはずだ。
基礎的な知識を蓄えておけばどんな論点にも対応できる
最初に断っておいたとおり、本書には「頭をよく見せる」のではなく、「本当に頭をよくする」という大いなる目的がある。つまり、私がこれまで著してきた本を基礎編とすると、本書はその応用編、あるいは上級編というわけだ。
形を整える段階から、いよいよ中身を磨くことへ踏み込んでいる。
知的に見える話し方、論理的な話し方を身につけていても、知識がなければ、ありふれていたり、的はずれなことを語ってしまう。また、ある意見に対して反対を表明したものの、その根拠がまったく浮かばなかったり、感情論で決めつけたりすると、結局頭の悪さが露呈する。本書はそうならないための本だ。
では、どうすれば内面=知識を高めていくことができるか?
私が勧めているのは「転用術」という方法だ。
大きな論点となっている事柄について、あらかじめ基本的な知識を蓄えておく。他者と話したり、議論をする際には、脳の引き出しに蓄えておいたこの知識を引っ張り出して、拡大解釈したり、こじつけたり、変形させながら転用することで、鋭く、実践的に論を深めていくことができる。
そこで本書では、現代社会で議論されているさまざまな問題点をすべて網羅し、二七項目にまとめたうえで、それぞれ賛否両論を併記した。これにより、読者は自分の考えが賛否どちらに近いか判断できるだろう(各論の終わりには、私自身の見解も述べておいた)。少なくともこれに基づいて意見を示すことができる。
「結局は人の意見の受け売りになってしまうんじゃないか」とおっしゃる方もいるだろう。
最初は聞きかじり、受け売りで結構だ。人の意見を自分の考えのように話しているうちに、やがては自分のビジョンが見えてくる。
もちろんここで取り上げなかった個別のテーマもある。たとえば「日本の国連常任理事国入りは是か非か」ということには触れていない。しかし、本書の知識を活用すれば、転用術を駆使することにより、自分の意見を表明できるだろう。つまり、ここで掲げた二七項目こそが、現代社会における論点の基本であり、かつすべてなのだ。
なお、各テーマともに一〇ぺージ以内にまとめることを心がけた。世界中の人々が「ああでもない、こうでもない」と論を戦わせている大きな問題について、わずか数分で基礎的な知識を仕入れ、これを他者との議論に応用することができるのだ。自画自賛のようだが、実に画期的ではないだろうか。
ぺージの下段には、各論に関わるキーワードも掲載した。会話のはしばしに挟むウイットに富んだウンチク話に利用したらいかがだろう。各テーマの知識をより深めるための筆者のオススメ参考図書も記しておいた。
本書を、ただ読むだけでなく、実際の会話、議論に役立ててほしい。実践の繰り返しが、「頭がよさそうに見える人」から「本当に頭のいい人」へと読者諸氏を高めてくれるにちがいない。
「頭がいい人」とはどんな人か?
本書の目的は、「本当に頭がいい人」を目指すことにある。これによって読者の知力を高めたい、というのが私の大いなる目論見だ。
「本を一冊読んだくらいで賢くなるわけはない」と鼻で笑う人もいるだろう。こういう人はIQや偏差値、学歴のような数値化された指標でしか、頭のよし悪しを判断できないのではないだろうか。確かにIQ二〇〇ともいわれるアメリカのライス国務長官は一見恐ろしく見えるくらい理知的だし、東大卒の国家官僚にはなかなかどうして優秀な人が多い。しかし、いくらIQ値が高くても、酒やギャンブルに溺れて身を持ち崩す人もいれば、一流大学を出てニートのまま時を過ごす人もいる。これはきわめて頭の悪い生き方だ。
私がいう「頭のよさ」とは、生まれつきの知能レベルや学歴とはまったく関係がない。社会生活を送る中で、磨かれ、成長していく能力のことなのだ。まず、人の話していることをきちんと理解しながら、話すことができる。つまり知的な会話ができるコミュニケーション能力が高いこと。さらに、周りの状況やものごとを把握して、それに対して賛成か反対かをしっかり主張することのできる、いわゆるプレゼンテーション能力の高い人こそ、私は「頭がいい」のだと考えている。そして、こうした力は本人の努力次第でいくらでも高めることができるはずだ。
どうすれば頭がよくなれるか?
私は今まで、「頭をよく見せる」ための本をたくさん書いてきた。
これに対しては「外面を整えるだけで、中身が伴わないのでは無意味だ」という批判もある。正論だし、実は私も同じ意見だ。内面が貧しければ、おのずとそれが外側にも表れてしまう。外面を取り繕うだけに終わっては、実際にはバカであることが他人にすぐバレるだろう。これまでの著作で私が提案してきたのは、見せかけを整えるだけでいい、ということではない。本当に頭をよくするための順番として、まずは頭がいい人だと思われるように、外面から整えるべきだと言いつづけてきたのだ。
なぜ、内面を磨くことから始めず、外面から入るのか。理由は三つある。
第一に、内面は見えにくい。
だからどんなに努力をしても、それによってどのくらい内面が充実したかを推し量ることは困難だ。これに比べて、外面を整えるのは比較的たやすい。ちょっとした話し方のコツを覚えるだけで、他人からの評価も違ってくる。「デキる奴」と思われれば、おのずと「もっとがんばろう」という気持ちにもなるだろう。簡単なことからスタートして、だんだんと高度なレベルに上げていく。これは学習の基本なのだ。
二つ目が、「黙っていたら誰も評価してくれない」ということだ。
外見を整えることに対して、これまで日本人はあまりにも無頓着だった。何はともあれ中身が先という考えが支配的だった。「沈然は金」とか「あうんの呼吸」といった日本人独特の感性によりかかって、中身さえ磨いておけば、黙っていても他人は評価してくれると思いこんでいた。しかし、グローバル化時代を迎えて、言葉や行動ではっきりと自分の能力をアピールできなければ、無能とみなされるようになった。能ある鷹は爪を隠さないし、たとえ能力が若干劣っていても、頭がいいと思われた者のほうが高く取り上げられるようになってきた。今や、豊富な知識や見識を持っていても、適切な形で他者に披瀝できなければ宝の持ち腐れだ。だからこそ、「見せる」テクニックが重要なのだ。
理由の三つ目は、私自身の経験による。
私はこれまでに数限りない小論文の添削を行ってきた。ところで、従来の小論文指導は、あくまで内面、つまりべースとなる知識を蓄えることに主眼が置かれてきた。しかし、私はまず書き方の形式を教えて、「型通りに書け。中身は後で整えればいい」と指導することにした。すると、それまで答案用紙を前に頭をひねるばかりだった学生たちが、すらすらと記述するようになっていったのだ。小論文にかぎったことではない。話し方にしても同じことだ。話をするための形式を知り、そのためのトレーニングを積まなければ、何も話すことはできない。
本当に頭がよくなるためには、まず頭をよく見せるように外面を整える。その後、じっくりと知識を蓄え、内面を磨けばいい、と私は考えている。
頭をよく見せるためには「四部構成」で話す
知性的に見せるための話し方については、多くの著作で詳細に記してきたから、ここでは簡単にそのおさらいだけしておく。
「四部構成」で論理的に話を進めるのだ。
第一部 問題提起 ものごとに対する考え方は、たいていは賛成か反対かのどちらかに集約される。だからまずはある論点に対して「イエス・ノーのどちらなのか」がわかるように問題提起をすることから始める。「太平洋戦争は本当に間違っていたんでしょうか?.」という具合だ。
第二部 意見提示 ここで論点に関する賛否両論を踏まえながら、客観的に自分の意見をまとめていく。相手が自分と相反する立場ならば「たしかにそのとおりですね。こういう考え方もありますからね。しかし、一方ではこんな見解もありますよ」というように。この際、自分の意見に固執するあまり、他者の感情を損ねてしまわないよう十分注意する。「たしかに〜」「しかし〜」を繰り返す過程で、時間稼ぎをしながら相手の反応を読みとる。顔色をうかがうのだ。そして、反論しないことが得策だと判断したら、話をうやむやにしてしまうか、あっさりと相手の意見に迎合してしまえばよい。知的に見える話し方は、あくまでコミュニケーションを円滑に進めるためのものであって、けんかをするためのものではない。とくにビジネスマンは相手によって多少なりとも自分の意見を変えざるを得ないということをしっかり覚えておいてほしい。自分の意見を強硬に主張して、徹底的に相手を論駁しても許されるのは、思想家や政治家くらいなのだ。
第三部 展開 ここで自分の意見とその根拠を明らかにする。「私はこう思う。その根拠は三つあります」というように論理的かつ整然と語ることで、相手もどんなことを言い出すのか関心を持ってくれるだろう。
第四部 結論 最後に、念を押すために「私の意見はだからこうなるんです」と結論づける。
このように「型」にのっとった話し方をすることで、まず頭がよく見えるはずだ。
基礎的な知識を蓄えておけばどんな論点にも対応できる
最初に断っておいたとおり、本書には「頭をよく見せる」のではなく、「本当に頭をよくする」という大いなる目的がある。つまり、私がこれまで著してきた本を基礎編とすると、本書はその応用編、あるいは上級編というわけだ。
形を整える段階から、いよいよ中身を磨くことへ踏み込んでいる。
知的に見える話し方、論理的な話し方を身につけていても、知識がなければ、ありふれていたり、的はずれなことを語ってしまう。また、ある意見に対して反対を表明したものの、その根拠がまったく浮かばなかったり、感情論で決めつけたりすると、結局頭の悪さが露呈する。本書はそうならないための本だ。
では、どうすれば内面=知識を高めていくことができるか?
私が勧めているのは「転用術」という方法だ。
大きな論点となっている事柄について、あらかじめ基本的な知識を蓄えておく。他者と話したり、議論をする際には、脳の引き出しに蓄えておいたこの知識を引っ張り出して、拡大解釈したり、こじつけたり、変形させながら転用することで、鋭く、実践的に論を深めていくことができる。
そこで本書では、現代社会で議論されているさまざまな問題点をすべて網羅し、二七項目にまとめたうえで、それぞれ賛否両論を併記した。これにより、読者は自分の考えが賛否どちらに近いか判断できるだろう(各論の終わりには、私自身の見解も述べておいた)。少なくともこれに基づいて意見を示すことができる。
「結局は人の意見の受け売りになってしまうんじゃないか」とおっしゃる方もいるだろう。
最初は聞きかじり、受け売りで結構だ。人の意見を自分の考えのように話しているうちに、やがては自分のビジョンが見えてくる。
もちろんここで取り上げなかった個別のテーマもある。たとえば「日本の国連常任理事国入りは是か非か」ということには触れていない。しかし、本書の知識を活用すれば、転用術を駆使することにより、自分の意見を表明できるだろう。つまり、ここで掲げた二七項目こそが、現代社会における論点の基本であり、かつすべてなのだ。
なお、各テーマともに一〇ぺージ以内にまとめることを心がけた。世界中の人々が「ああでもない、こうでもない」と論を戦わせている大きな問題について、わずか数分で基礎的な知識を仕入れ、これを他者との議論に応用することができるのだ。自画自賛のようだが、実に画期的ではないだろうか。
ぺージの下段には、各論に関わるキーワードも掲載した。会話のはしばしに挟むウイットに富んだウンチク話に利用したらいかがだろう。各テーマの知識をより深めるための筆者のオススメ参考図書も記しておいた。
本書を、ただ読むだけでなく、実際の会話、議論に役立ててほしい。実践の繰り返しが、「頭がよさそうに見える人」から「本当に頭のいい人」へと読者諸氏を高めてくれるにちがいない。
樋口裕一
1951年大分県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、立教大学大学院博士課程修了。通信添削指導による作文・小論文塾「白藍塾」主宰、小学生から社会人までを対象にした独自の文章指導を行っている。東進ハイスクール客員講師。著書の『頭がいい人、悪い人の話し方』(PHP新書)が200万部を越すベストセラーになり、マスコミで脚光を浴びている。他の著書に『読むだけ小論文』(学研)『ホンモノの思考力』(集英社新書)『「本を読む子」は必ず伸びる!』(すばる社)『人の心を動かす文章術』(草思社)などがある。また訳書にソニー=ラブ・タンシ『一つ半の生命』(新評論)、ジョルジュ・バタイユ『エロスの涙』(トレヴィル)などがある。
1951年大分県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、立教大学大学院博士課程修了。通信添削指導による作文・小論文塾「白藍塾」主宰、小学生から社会人までを対象にした独自の文章指導を行っている。東進ハイスクール客員講師。著書の『頭がいい人、悪い人の話し方』(PHP新書)が200万部を越すベストセラーになり、マスコミで脚光を浴びている。他の著書に『読むだけ小論文』(学研)『ホンモノの思考力』(集英社新書)『「本を読む子」は必ず伸びる!』(すばる社)『人の心を動かす文章術』(草思社)などがある。また訳書にソニー=ラブ・タンシ『一つ半の生命』(新評論)、ジョルジュ・バタイユ『エロスの涙』(トレヴィル)などがある。