働くこと、生きること
はじめに
私が本書のテーマを思いついたのは、ちょっとしたことからだった。
二年ほど前のことだが、偶然チャンネルを回したテレビ番組で若い起業家をゲストに迎えて、就職前の学生たちによる起業や就職などについての討論が行われていた。若い起業家の「結果がすべて」という発言にやや違和感を覚えながらも、どんな職業に就きたいのか、自分に合った仕事とはどのようなものか、最後はなぜ働くのかといった広範囲に及ぶ討議内容だったため、ついつい見入ってしまった。
いろんな考えや意見があるものだと感心しながら観ていたが、どうしても気になる発言があった。それは、「やりたいことがあるから、いまはとにかく(賃金の)高いところで働きたい。高ければ、どんな仕事でもいい」というものである。たしかに、何かの目的のために一定期間、その資金稼ぎとして賃金の高い仕事を求めるのは、理解できないことではない。一般論としては、当然だろうし、何も不思議なことではない。
しかしその期間が一年とか二年とか、あるいはそれ以上に長くなった場合、いったいどうするのだろうかと、ふと疑問に思ったのである。いやそうでなくても、いくらお金のためとはいえ、嫌な仕事をずっと我慢できるものなのだろうか。
ありふれた言い方になるが、その間は「金の奴隷」になることを意味する。そして嫌な仕事が終われば、また「人間に戻る」ということになるのだろうが、はたして人間はそう便利に切り替われるものなのだろうか。テレビを観ている間、私の疑問は膨らむいっぽうだった。
しかし半面、そう言い切ってしまえる彼らが私には羨ましかったし、眩しかったのもまた、事実である。いつも「本当に、そうだろうか」とか「これでいいのだろうか」と何事にも疑問を抱き悩む私にとって、ある意味、新鮮でもあった。あのような「割り切り」で生きられるなら、それはそれで立派だとも思った。
若い彼らの発言に触発される形で、私はもう一度、「働く意味」を考え直してみたいと思った。本当に「割り切って」働けるなら、私たちは何のために働いているのか、あるいは働くということはどういうことなのかを、それまで私が取材で出会った「働く人たち」の生き方を通して再検討したいと思ったからである。
そのチャンスを私に与えてくれたのが、草思社が発行する小冊子『草思』での二度にわたる連載である。二〇〇四年に「働くということ」、翌〇五年からは「働く女性たち」というタイトルで合計九回、記事を掲載していただいた。
それらを下敷きに大幅な加筆修正を加えたものに、新たに障害者の立場からの「働く意味」と、日本に留学経験を持ち中国で日系企業に勤める中国人社員の「外資で働くこと」についての二章を書き下ろしたのが、本書である。
もちろん私は、この作業を通じて「たったひとつの解」を見出そうとしているわけではない。おそらく「ひとつの解」などないだろうし、人それぞれによって、見出す価値観は違い、働く意味も違うだろう。
しかし「働く意味」をもう一度考え直す契機になれば、いま私たちが携わっている仕事の別の面が見えてくるのではないか、あるいはこれから就職する人たちが新しい視点で仕事を選ぶ参考になるのではないかと期待している。
また私には、若い起業家の「結果がすべて」という常套句は、じつは現実の一面しか見ていないことにに気づいて欲しいという思いがある。よく言われることだが、学校(教育)は「プロセス」を重視するが、社会ではつねに結果が問われる、と。この考えには私も基本的には賛成である。
しかしそれは、社会が「プロセス」を重視しないという意味ではない。むしろ学校よりも厳しく「プロセス」が問われる時代に生きていることも分かって欲しい。
いまでは「会社のため」に法律を犯すことを社会は許容しないし、株主代表訴訟に代表されるように、会社の利益のための行為であっても反社会的な行為であれば、経営陣は厳しく責任を問われる時代である。例えば、雪印のように、記者会見で経営首脳が「ウソ」をついたため、消費者の不買運動にあい、倒産に追い込まれた会社もある。
私は「結果(目的)は、手段を正当化しない」と考えている。
そうした前提に立ったうえで、本書では、さまざまな「働く現場」を取り上げている。製造現場、間接部門、自営業、障害者を中心に運営される工場など、そこで働く人たちの考えや思いを紹介しながら、私が考える「働く意味」を記述している。
そこに貫く私の基本的な考えは、「社会で働くことの大切さ」である。さらに言うなら、「まじめに働くこと」、勤勉の尊さである。
本書を通じて、多くの人と「働く意味」について語り合えたなら、これほど幸せなことはない。現在、社会では「金がすべて」や「正直者は馬鹿をみる」といった現象が少なくない。はたしてそれでいいのだろうか、と私は思う。そういったことも同時に考えていただければ、正直に生きることがもっと評価され、お金は必要だが、それだけでは生きられないことがコンセンサスになる社会の実現もまた、一歩近づけるのではないかと勝手に信じている。
私が本書のテーマを思いついたのは、ちょっとしたことからだった。
二年ほど前のことだが、偶然チャンネルを回したテレビ番組で若い起業家をゲストに迎えて、就職前の学生たちによる起業や就職などについての討論が行われていた。若い起業家の「結果がすべて」という発言にやや違和感を覚えながらも、どんな職業に就きたいのか、自分に合った仕事とはどのようなものか、最後はなぜ働くのかといった広範囲に及ぶ討議内容だったため、ついつい見入ってしまった。
いろんな考えや意見があるものだと感心しながら観ていたが、どうしても気になる発言があった。それは、「やりたいことがあるから、いまはとにかく(賃金の)高いところで働きたい。高ければ、どんな仕事でもいい」というものである。たしかに、何かの目的のために一定期間、その資金稼ぎとして賃金の高い仕事を求めるのは、理解できないことではない。一般論としては、当然だろうし、何も不思議なことではない。
しかしその期間が一年とか二年とか、あるいはそれ以上に長くなった場合、いったいどうするのだろうかと、ふと疑問に思ったのである。いやそうでなくても、いくらお金のためとはいえ、嫌な仕事をずっと我慢できるものなのだろうか。
ありふれた言い方になるが、その間は「金の奴隷」になることを意味する。そして嫌な仕事が終われば、また「人間に戻る」ということになるのだろうが、はたして人間はそう便利に切り替われるものなのだろうか。テレビを観ている間、私の疑問は膨らむいっぽうだった。
しかし半面、そう言い切ってしまえる彼らが私には羨ましかったし、眩しかったのもまた、事実である。いつも「本当に、そうだろうか」とか「これでいいのだろうか」と何事にも疑問を抱き悩む私にとって、ある意味、新鮮でもあった。あのような「割り切り」で生きられるなら、それはそれで立派だとも思った。
若い彼らの発言に触発される形で、私はもう一度、「働く意味」を考え直してみたいと思った。本当に「割り切って」働けるなら、私たちは何のために働いているのか、あるいは働くということはどういうことなのかを、それまで私が取材で出会った「働く人たち」の生き方を通して再検討したいと思ったからである。
そのチャンスを私に与えてくれたのが、草思社が発行する小冊子『草思』での二度にわたる連載である。二〇〇四年に「働くということ」、翌〇五年からは「働く女性たち」というタイトルで合計九回、記事を掲載していただいた。
それらを下敷きに大幅な加筆修正を加えたものに、新たに障害者の立場からの「働く意味」と、日本に留学経験を持ち中国で日系企業に勤める中国人社員の「外資で働くこと」についての二章を書き下ろしたのが、本書である。
もちろん私は、この作業を通じて「たったひとつの解」を見出そうとしているわけではない。おそらく「ひとつの解」などないだろうし、人それぞれによって、見出す価値観は違い、働く意味も違うだろう。
しかし「働く意味」をもう一度考え直す契機になれば、いま私たちが携わっている仕事の別の面が見えてくるのではないか、あるいはこれから就職する人たちが新しい視点で仕事を選ぶ参考になるのではないかと期待している。
また私には、若い起業家の「結果がすべて」という常套句は、じつは現実の一面しか見ていないことにに気づいて欲しいという思いがある。よく言われることだが、学校(教育)は「プロセス」を重視するが、社会ではつねに結果が問われる、と。この考えには私も基本的には賛成である。
しかしそれは、社会が「プロセス」を重視しないという意味ではない。むしろ学校よりも厳しく「プロセス」が問われる時代に生きていることも分かって欲しい。
いまでは「会社のため」に法律を犯すことを社会は許容しないし、株主代表訴訟に代表されるように、会社の利益のための行為であっても反社会的な行為であれば、経営陣は厳しく責任を問われる時代である。例えば、雪印のように、記者会見で経営首脳が「ウソ」をついたため、消費者の不買運動にあい、倒産に追い込まれた会社もある。
私は「結果(目的)は、手段を正当化しない」と考えている。
そうした前提に立ったうえで、本書では、さまざまな「働く現場」を取り上げている。製造現場、間接部門、自営業、障害者を中心に運営される工場など、そこで働く人たちの考えや思いを紹介しながら、私が考える「働く意味」を記述している。
そこに貫く私の基本的な考えは、「社会で働くことの大切さ」である。さらに言うなら、「まじめに働くこと」、勤勉の尊さである。
本書を通じて、多くの人と「働く意味」について語り合えたなら、これほど幸せなことはない。現在、社会では「金がすべて」や「正直者は馬鹿をみる」といった現象が少なくない。はたしてそれでいいのだろうか、と私は思う。そういったことも同時に考えていただければ、正直に生きることがもっと評価され、お金は必要だが、それだけでは生きられないことがコンセンサスになる社会の実現もまた、一歩近づけるのではないかと勝手に信じている。
立石泰則
1950年福岡県生まれ。中央大学大学院法学研究科修士課程修了。『週刊文春』記者等を経て88年よりフリー。現在、ノンフィクション作家・ジャーナリスト。92年に『覇者の誤算 日米コンピュータ戦争の40年』(日本経済新聞社)で第15回講談社ノンフィクション賞を受賞。2000年に『魔術師 三原脩と西鉄ライオンズ』(文藝春秋)で99年度ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞する。その他の著書に『淋しきカリスマ堤義明』(講談社)、『チャイナリスク ある邦銀の挑戦』(小学館文庫)などがある。
1950年福岡県生まれ。中央大学大学院法学研究科修士課程修了。『週刊文春』記者等を経て88年よりフリー。現在、ノンフィクション作家・ジャーナリスト。92年に『覇者の誤算 日米コンピュータ戦争の40年』(日本経済新聞社)で第15回講談社ノンフィクション賞を受賞。2000年に『魔術師 三原脩と西鉄ライオンズ』(文藝春秋)で99年度ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞する。その他の著書に『淋しきカリスマ堤義明』(講談社)、『チャイナリスク ある邦銀の挑戦』(小学館文庫)などがある。