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立ち読みコーナー
あの頃こんな球場があった
――昭和プロ野球秘史
佐野正幸 著
「日生球場」の章より

 ライトアップされた大阪城に見守られながら数々の好ゲームが行なわれてきた日生球場がこの世を去るときがきた。この年、同じ環状線の内側に近代的な大阪ドームが完成していた。日生球場の役目は終わっていたといえる。だいたいスタンドの裏が土手なんて球場は、今どき、地方にもないだろう。
 とはいえ近鉄ファンは、鳴り物が禁止された藤井寺球場の鬱憤を晴らすように、この球場ではトランペットに合わせて思いっきり声を出すことができたし、大学野球も遠慮なく応援合戦ができたようである。だが、最大の人気カードである関関戦でもスタンドに人は少なかった。むしろ高校野球のときの熱気はすごいもので、PL学園など強豪人気校が登場のときは満員になることもしばしばだった。もちろん社会人野球も、予選はほとんど日生球場だった。
 考えてみると、日生は高校、大学、社会人、そしてプロ野球とフル回転の球場だった。それだけに、もっと早く設備の整った球場に改装してもよかったのではないかという気がする。
 現在、日生球場の跡地はすでに平坦になっている。正面にあった階段が残っていたり、内野席の外壁が残っていたりして、在りし日の姿を偲ぶことはできるが、そびえ立っていた照明塔がないのが淋しい。あの伝説のバッティングセンターも今はない。そして、かつて主だった近鉄バファローズも平成十六年に消滅してしまった。

 日生球場で一番忘れられない試合は昭和五十六年十月四日の近鉄対阪急のダブルヘッダー。そう西本幸雄監督の引退試合であった。私は当然、大阪入りを予定していたのだが、当日どうしても外せない仕事が入ってしまい、西本監督の「無理するな」という言葉を言い訳に球場に行かなかった。いま思えば、西本監督が仕事を投げだしてでも来いというわけはないのだが、当時、結婚式を一カ月後に控えていた私は、上司とのあいだに摩擦を起こしたくないという保身の気持ちが働いてしまったのである。
 その日、部屋に帰って日生球場の模様をテレビで見た。超満員のスタンドで西本監督が、手塩にかけた近鉄、阪急両軍の選手の手によって胴上げされていた。私は猛烈に後悔の念が湧いてきて、その夜、眠れなかったことを覚えている。私はあまり後悔の念を持ち越さないほうであるが、このことだけはいまだに悔いが残っている。

 設備が貧弱でも、選手との距離は思いっきり近かった日生球場。どこか古きよき時代を思い出させる愛すべきスタジアム日生球場。近鉄球団が消滅して、日生球場跡地も思い出の中へと追いやられてしまう。もう一度、日生球場のスタンドに座りたくなってきた。



佐野正幸
1952年札幌市生れ。札幌光星高〜神奈川大卒。ファンレターが縁で阪急(のち近鉄)監督の西本幸雄氏に心酔。上京後、西本監督応援のため全国の球場をかけまわる。氏との縁で近鉄百貨店に入社。球団消滅まで、近鉄応援がライフワークだった。98年近鉄百貨店退社後、文筆業に。スタンド視点の新しいタイプの野球作家として著作多数。北海道新聞・札幌圏ニュース「がんばれファイターズ」にコラムを連載しているほか、司会・講演等でも幅広く活躍中。URL http://www.bu-plan.co.jp E-mail info@bu-plan.co.jp 〔著書〕『1988年「10・19」の真実』(新風舎)『G戦上のバリア』(新風舎)『もうひとつの「江夏の21球」』(新風舎)『野球狂の応援歌』(新風舎)『札幌人よ!日本ハム移転で大きく変われ!』(日刊スポーツ出版社)『ねじれた白球』(星雲社)『近鉄消滅 新生パ・リーグ誕生』(長崎出版)『1988年10・19の真実』(光文社知恵の森文庫)