明日のブルドッグ
手術
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CMのスターにはなりそこなったが、撮影隊から解き放たれたブル太郎は、家に戻るといつもののっそりとした生活に浸りこんで、のどかに暮らしだした。秋の空気はブル太郎には最適で、庭のベランダに敷かれた段ボールに寝そべり、腹を出して気持ちよさそうにイビキをかいている。
夕方のすずしい風が吹きだすと、のっそりと起きあがって網戸の破れ目から居間に入ってくる。網戸が破れてしまったのは、ブル太郎の頭突きにやられてしまったからだ。それから廊下に出て、突き当たりにある和室の茶の間のドアの前に行って「ワン」と犬らしい声で吠える。しばらくすると、妻が眠そうな顔で現れる。妻にとって午後のその時間は、経営している輸入雑貨店の休憩時間にあてているのだが、それは決まってブル太郎の散歩によって破られる。
それから首輪をかけるのだが、それがまたひと騒動で、その時間をブル太郎はじゃれあいタイムだと思いこんでいて、首輪を噛んだり、リードをくわえて母の部屋にもっていったりと、色々わるさをする。散歩には行きたいくせに、素直に首輪をかけさせないのである。それで妻はロールパンをひときれ与えて、首輪と交換する。そうすることがいつのまにか、儀式のようになっていた。夕方の散歩は妻の担当だった。
散歩は大抵ブロックを一周する程度で、ときには二周することもある。それは飼い主が決めるのではなく、ブル太郎の気分次第なのである。二階のベランダから見ていると、角に佇んだまま空に顔を向けて動こうとしないブル太郎の傍らで、リードを持った妻が、所在なげに立っている姿をよく目にとめる。大変だなと思っていると、妻が人目もはばからず、大口を開けて欠伸 をすることもある。
ブル太郎が散歩に出たあと、たまに気が向いて私も外に出ることがある。角まで行ってゴルフクラブを振っていると、がふがふという声が反対側の角から聞こえてきて、やがてブル太郎が現れる。胸が白いのでふくろうのように見える。立花はF1カーみたいだというが、私にはブル太郎の歩く姿はどこかバランスが悪くて、大型の鳥のように見える。それが妙にユーモラスだ。
妻を従えて角を曲がってきたブル太郎は、三十メートルほど先で立ち止まる。向こうに立っている人間は誰だというように顔を上げて毅然としている。数秒後に歩きだす。飼い主を認めたのだな、と思って私はゴルフクラブを手に立っている。喜色満面で飛びついてくるだろうと私は待ちかまえている。ところが、ブル太郎は私のすぐそばを通りはするが、顔を上げることも、立ち止まることもせずに、そのまま歩き過ぎてしまうのである。それを見て、妻はくすくすと笑う。ときには、ほらパパよ、と注意を促すこともあるが、犬の方ではまったく無視して行ってしまう。コケにされた飼い主は憮然 としてぶっ立っている。そういう光景がずっと続いている。幼犬のときには、飼い主を見つけて走ってきたこともあるが、それはもういつのことだったか忘れてしまったほどである。
成犬になってからは、もともとあった頑固さに加わって、気難しさが増してきた。居間のドアを閉めて私がくつろいでいると、廊下をかちゃかちゃ爪の音をたててやってきたブル太郎が、ドアに頭をぶつけて開けようとする。ドアと柱の間に隙間のあるときは、ボカーンと大きな音がたってドアが直角に開かれ、ブル太郎の登場となるのだが、閉まっていてはさすがのブル太郎の頭突きでも開けられない。
二度、三度とぼかぼかとドアに頭をぶつけてくると、私は仕方なくソファから立ち上がってドアを開けることにしている。閉めたままにしておくと、ふてくされたブル太郎がドアの前に小便をして立ち去ってしまうことがあるからだ。
ドアを開けると、そこにはブル太郎の顔がないことがままある。そういうときのブル太郎はきまってドアに尻を向けて、玄関にある小窓に目を向けている。外を見ているわけではない。自分の勝手気儘 が通用しないことを知って腹を立てているのである。
おい、どうした、と尻に向かっていうと、ブル太郎はギロリと目を剥 いてUターンすると、フンと鼻を鳴らして居間のドアの前を通り過ぎ、母の部屋に入ってしまう。母の部屋は和室になっているが、ベッドが置かれていて、そこに飛び乗ってこわい顔をして飼い主を睨 んでいるのである。私はこれまで四十年以上あらゆる種類の犬を飼っていたが、飼い主の顔色を窺 う犬は知っていても、飼い主に対して不機嫌な顔を向ける犬と暮らすのは初めてのことだった。
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CMのスターにはなりそこなったが、撮影隊から解き放たれたブル太郎は、家に戻るといつもののっそりとした生活に浸りこんで、のどかに暮らしだした。秋の空気はブル太郎には最適で、庭のベランダに敷かれた段ボールに寝そべり、腹を出して気持ちよさそうにイビキをかいている。
夕方のすずしい風が吹きだすと、のっそりと起きあがって網戸の破れ目から居間に入ってくる。網戸が破れてしまったのは、ブル太郎の頭突きにやられてしまったからだ。それから廊下に出て、突き当たりにある和室の茶の間のドアの前に行って「ワン」と犬らしい声で吠える。しばらくすると、妻が眠そうな顔で現れる。妻にとって午後のその時間は、経営している輸入雑貨店の休憩時間にあてているのだが、それは決まってブル太郎の散歩によって破られる。
それから首輪をかけるのだが、それがまたひと騒動で、その時間をブル太郎はじゃれあいタイムだと思いこんでいて、首輪を噛んだり、リードをくわえて母の部屋にもっていったりと、色々わるさをする。散歩には行きたいくせに、素直に首輪をかけさせないのである。それで妻はロールパンをひときれ与えて、首輪と交換する。そうすることがいつのまにか、儀式のようになっていた。夕方の散歩は妻の担当だった。
散歩は大抵ブロックを一周する程度で、ときには二周することもある。それは飼い主が決めるのではなく、ブル太郎の気分次第なのである。二階のベランダから見ていると、角に佇んだまま空に顔を向けて動こうとしないブル太郎の傍らで、リードを持った妻が、所在なげに立っている姿をよく目にとめる。大変だなと思っていると、妻が人目もはばからず、大口を開けて
ブル太郎が散歩に出たあと、たまに気が向いて私も外に出ることがある。角まで行ってゴルフクラブを振っていると、がふがふという声が反対側の角から聞こえてきて、やがてブル太郎が現れる。胸が白いのでふくろうのように見える。立花はF1カーみたいだというが、私にはブル太郎の歩く姿はどこかバランスが悪くて、大型の鳥のように見える。それが妙にユーモラスだ。
妻を従えて角を曲がってきたブル太郎は、三十メートルほど先で立ち止まる。向こうに立っている人間は誰だというように顔を上げて毅然としている。数秒後に歩きだす。飼い主を認めたのだな、と思って私はゴルフクラブを手に立っている。喜色満面で飛びついてくるだろうと私は待ちかまえている。ところが、ブル太郎は私のすぐそばを通りはするが、顔を上げることも、立ち止まることもせずに、そのまま歩き過ぎてしまうのである。それを見て、妻はくすくすと笑う。ときには、ほらパパよ、と注意を促すこともあるが、犬の方ではまったく無視して行ってしまう。コケにされた飼い主は
成犬になってからは、もともとあった頑固さに加わって、気難しさが増してきた。居間のドアを閉めて私がくつろいでいると、廊下をかちゃかちゃ爪の音をたててやってきたブル太郎が、ドアに頭をぶつけて開けようとする。ドアと柱の間に隙間のあるときは、ボカーンと大きな音がたってドアが直角に開かれ、ブル太郎の登場となるのだが、閉まっていてはさすがのブル太郎の頭突きでも開けられない。
二度、三度とぼかぼかとドアに頭をぶつけてくると、私は仕方なくソファから立ち上がってドアを開けることにしている。閉めたままにしておくと、ふてくされたブル太郎がドアの前に小便をして立ち去ってしまうことがあるからだ。
ドアを開けると、そこにはブル太郎の顔がないことがままある。そういうときのブル太郎はきまってドアに尻を向けて、玄関にある小窓に目を向けている。外を見ているわけではない。自分の
おい、どうした、と尻に向かっていうと、ブル太郎はギロリと目を
高橋三千綱
1948年、大阪生まれ。サンフランシスコ州立大学英語学科創作コース、早稲田大学英文科をいずれも中退ののち、スポーツ紙の記者となる。1974年『退屈しのぎ』で群像新人文学賞、1978年『九月の空』で芥川賞受賞。著書に『九月の空』『こんな女と暮らしてみたい』(以上、角川文庫)『剣聖一心斎』(文春文庫)『お江戸は爽快』『フェアウェイの涙』(以上、双葉文庫)『今日から目覚める文章術』(ロング新書)などがある。
1948年、大阪生まれ。サンフランシスコ州立大学英語学科創作コース、早稲田大学英文科をいずれも中退ののち、スポーツ紙の記者となる。1974年『退屈しのぎ』で群像新人文学賞、1978年『九月の空』で芥川賞受賞。著書に『九月の空』『こんな女と暮らしてみたい』(以上、角川文庫)『剣聖一心斎』(文春文庫)『お江戸は爽快』『フェアウェイの涙』(以上、双葉文庫)『今日から目覚める文章術』(ロング新書)などがある。