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立ち読みコーナー
結論で読む人生論
――トルストイから江原啓之まで
勢古浩爾 著
第6章 人生の価値、人生の意味

なにはなくともこの糞坊主──今東光『極道辻説法』

 人生なんて、そんなにむずかしいものか。じつにさまざまな考えがあって少々、食傷気味である。もしかしたら、人生論が人生をむずかしくしているのではないか。たしかに人生には山があり谷がある。悲喜こもごもである。だが結局、生まれて、生きて、ただ死ぬだけのことではないか。どう生きるかは、それぞれの計らいでいいではないか。ここまで見てきたさまざまな人生論はあまりにも近寄りがたいし、荒唐無稽すぎるし、立派すぎる。もっとスカッとしたものはないのか、とお嘆きのあなた、これがあるのだ。
 その男が生存中は、なんだこの濁声のハゲ坊主は、と多少の反感を持っていた。が、わたしはいまでは今東光を尊敬している。そう、今東光和尚である。聞いていただこう。

「正しい人生」とか「何とかの人生」なんてものはないよ。本人にとっての人生しかないんでね。自分にとっての人生しかないんだ。おめえが十八なら、「十八の人生」というものしかないよ。それしか、オレは言いようがないね。(略)だから、自分にとっての人生で、自分が、これが正しいと思って闘って、勝つか負けるか、これだけだよ、人生なんて。 ──『毒舌身の上相談』集英社文庫

「バカ正直だと損をする。もっとずるく悪賢く立ち回れ」なんてよく人が言うけど、その言っている野郎が、ずるく悪賢く立ち回って成功しているかっていうと、絶対にそうじゃねえんだな。そんなのはダメなんで、真実火の玉になって人生を渡っていって、社会にぶつかっていくんじゃなけりゃあダメだよ。人がよすぎて結構じゃねえか。そんなタワ言ぬかすような野郎なんぞ相手にするな! ──同書

 ね、もうこれだけ。
 これらの言葉はみな人生相談の回答である。こんなにおもしろくてためになる人生相談は読んだことがない。「人生始めたばかりでスランプに落ちたら、死ぬまでスランプだぜ、この馬鹿野郎!」「おめえみてえな野郎は一生、女を本当に愛することができねえよ。女を捨てて自慢してるような野郎は、人間の屑もいいところだ」「そんな夢みたいなこと考えてねえで、てめえのキンタマのフクロのシワでものばしてた方がよっぽどましだぜ、この野郎!」などと質問者をしばきあげるのである。生半可な言葉に焦れている。だが、そのあとで、和尚はこういう正しいことをいうのである。

 そんなことよりもだな、どんな小さな仕事でも、与えられた仕事を完全にやることだ。それでその仕事ではあいつは日本一だ、といわれるようになりゃあ、オレはもうそれだけで坂本竜馬以上に立派で人々のため国のためにつくしていることになると思うんだ。 ──『極道辻説法』集英社

 二十三歳の学生が近所の中三の女学生の家に半年間、毎日毎日いたずら電話をかけた。どうしても彼女に自分が好きだということを知ってもらいたい。おれはどうしたらいい? 自首すべきだろうか、という質問に対する傑作回答はこれである。

 自首するより死んだ方がいい。悪いことは言わん。死にな。二十三歳にもなってそんな電話かけたりするバカなら、自首するより死んだ方がいい。自首すりゃあ、恥をかくからね。恥かくより死んだ方がいいよ。
 切に自殺をお勧めいたします。 ──『毒舌身の上相談』

 この「死にな」がいい。「悪いことは言わん」だって。「お勧めいたします」だって。「眠れないんだったら、眠らなけりゃあいいじゃねえか」「別のブスを探しな、おめえの顔に合ったよ」「手のつけられねえほど愚鈍であるよ、てめえという男は!」「てめえがみじめそのものなんだよ」「生意気なこと言いやがって。親のスネ齧りのくせして、チンポだけ発達してやがる」「バーカ。そんなこと、医者に聞けばいいじゃねえか。オレがわかるわけねえだろうが」「ぶっ殺してやりたいよ」「何とぼけてんだよ、こん畜生は!? 何のために兄貴に生まれたんだ!?」「けったくそ悪いガキだぜ、てめえも」「バカか、てめえは」「張り倒すぞ、この野郎!」と罵詈讒謗のかぎりである。言いたい放題の糞坊主である。
 だがその底から聖和尚の本質が現れる。「人生で一番大事なものは、あくまでも正直であり、誠実であり、愛情であるんだ」「愛のないような人間は人間のクズでな」「ひとりの女を不幸にするよりは、てめえが不幸になる方がいい」。極めつけは、これである。「おめえは一人のいい女を見つけたら、それにひれ伏すような謙虚な気持ちになれ! そこから出発するんだ。恋だの愛だの言う前に、まず己を空しゅうして、謙虚になってひれ伏す。愛する人の前にひれ伏すという気持ちにならなければ、女を愛することもできないし、女にも愛されない」。いいでしょうが、これは。今時のどんな男や女よりも、どんな大人や青年よりも純情ではないか。
 だれにでもできる芸ではない。「自分には必ず死がくる」のに、「自分(人間)はどうして生きなければならないのだろうか?」という二十一歳の学生の質問。利いた風なことをいう者には東光は容赦がない。

 バカとちがうか、こん畜生は? 生きているのに“生きる義務”もねえもんだ。いやならとっとと死にゃあいいだろう。そんなこっていっぱし物を考えていると思ってるのはバカだよ。生きるのは何も義務でもないし、運命でもない。オレたちは命のあるだけ生きるだけのことだ。努力によって生きてるわけでもありゃあしねえ。それでどうせ死ぬんだとか、あとには何も残らねえとか、そんなくだらねえことを若い身空で考えてよう。たしかに残らねえよ、おめえみたいなバカ者は! その生きる義務とやらをさっさと放棄して死んじまえ! ──『極道辻説法』

 おなじように、「人生ってちっとも面白いと感じたことがない」「つまらなかったらさっさと自殺していいんだと思う」十九歳の学生に。

 自殺より、最初に人生についていうと、全部の人間に聞いてみな、「おまえの人生、つまってるか?」って。みんな「つまらねえよ」って言うよ。そのつまらない中で、どうしたらつまるか、つまり、つまるものを見出していく発見だ、この能力を養わなかったらどうにもならねえんだよ、人生は。どこへ行っててもつまるものを発見するという能力をまず養う。能力というより、そういう努力をするということだ。(略)
 それでもつまらなかったら、さっさと死んじまえばいい。オレは別にとめやせん。生きてる意味を放棄したんだから、勝手に死にゃあいいさ。 ──同書

 つまらないもののなかに、いかにして「つまるものを見出していく」か。平伏である。最後に、死んだらどこへ行くのか、という十八歳の学生へ。「そんなことわかるかい!」。チャンチャン。すべての人生相談は、中尊寺の東光さんの前に顔色なし。



勢古浩爾
1947年、大分県生まれ。明治大学政治経済学部卒、同大学大学院政治学修士課程修了。現在、洋書輸入会社に勤務。「ふつうの人」としての意識を立脚点とした、独自の批評活動を展開している。著書に『自分をつくるための読書術』『思想なんかいらない生活』(ともにちくま新書)、『わたしを認めよ!』『白洲次郎的』(ともに洋泉社・新書y)、『まれに見るバカ』(洋泉社文庫)、『「自分の力」を信じる思想』(PHP新書)、『生きていくのに大切な言葉 吉本隆明74語』(二見書房)などがある。