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立ち読みコーナー
戦場の名言
――指揮官たちの決断
田中恒夫 著 / 葛原和三 著 / 熊代将起 著 / 藤井久 著
昭和二〇年(一九四五)三月一七日/小笠原兵団長 栗林忠道くりばやしただみち中将
断じて戦うところ
死中おのずから活あるを信ず。

 アメリカ軍は当初、五日間で硫黄島いおうじまを攻略する予定であった。しかし、圧倒的な戦力の格差があったにもかかわらず、日本軍守備隊は三六日間も組織的な戦闘を継続し、アメリカ軍の死傷者数は日本軍のそれを上回った。
 死闘もいよいよ最終局面を迎えるにいたり、栗林忠道くりばやしただみち中将はこの訓示を述べ、「私のあとに続いてください」と結んだ。そして栗林中将をはじめ高級将校は自決することなく、軍刀をひっさげて最後の突撃をした。これについて米海兵隊戦史は、「日本軍の出撃は、万歳突撃ではなく、最大の混乱と破壊とを起こさせることを狙った優秀な計画であった」と記している。なお、この最後の突撃は、三月二六日だったとするのが定説となっている。

 徹底した栗林戦法

 栗林忠道中将(三月一七日付で大将)は、『愛馬進軍歌』の歌詞の選者で、これを添削した人として知られ、騎兵科出身であった。戦前にアメリカ、カナダと二度の駐在武官の経験があり、アメリカの国力、アメリカ軍の力量については充分承知しており、硫黄島の戦闘がどう推移するかは容易に判断できていたはずである。しかし、終始、必勝の信念を燃やし、情に流されず、理性と論理によった統率に徹した。
 香港ホンコン攻略の第二三軍参謀長で大東亜戦争を迎えた栗林忠道が、留守近衛第二師団長から第一〇九師団長を兼ねて小笠原兵団長に異動したのは、昭和一九年五月のことであった。当時、第一〇九師団の司令部は父島ちちじまにあったが、アメリカ軍は必ずや飛行場のある硫黄島に来攻するとの判断から司令部を移動させたうえで、硫黄島に着任した。以来、彼は戦死するまで一歩も島を出ることはなかった。騎兵科出身の人らしく、「つねに指揮官は先頭にある」の精神を忘れなかったのであろう。
 硫黄島の守備隊は、第一〇九師団の混成第二旅団を主力とし、これに足止めになったサイパン逆上陸部隊などを加えたものであった。言ってみれば寄せ集めで、応召おうしょうの老兵が主体であった。しかも硫黄島は最悪の戦場だった。大海に浮かぶ孤島で、まさに孤立無援の戦いになる。水は天水に頼るほかはない。昭和一九年夏の時点でも補給は途絶えがち。
 条件に恵まれた島嶼とうしょの戦いでも、守備隊の玉砕が続いている。そこで、洞窟戦どうくつせんによって敵に多大な人的損害を与え、徹底して持久する「栗林戦法」が編み出された。しかし、硫黄島は全島これ火山で地熱が高く、地下壕を掘るのにこれほど適していない土地もない。だが、小笠原兵団の将兵は、人力だけで一八キロにもわたる地下坑道を掘りぬいた。
 兵団といっても満足な司令部を持たないため、栗林中将はみずから島じゅうをめぐり、懇切丁寧に陣地構築を指導し、徹底持久の戦法の普及に努めた。そして文才豊かな人らしく、美文調の『敢闘かんとうちかい』六項を定めて将兵の覚悟を求めた。その一項には、「我らは各自敵十人をたおさざれば死すとも死せず」とあった。

 玉砕は許さない

 硫黄島における小笠原兵団の総兵力は海軍部隊を合わせて約二万一〇〇〇人、来攻したアメリカ海兵隊は六万一〇〇〇人。アメリカ軍には戦車、火砲のみならず、付近を常時遊弋ゆうよくする戦艦六〜八隻、巡洋艦四〜九隻による艦砲射撃と、延べ四〇〇〇機以上の航空支援の火力がある。このかけはなれた戦力格差に対して栗林戦法の徹底で対抗したのである。
 戦力を消耗し尽くした部隊にとって、最後の花道となる突撃も、堅く戒められた。栗林兵団長は、死ぬよりも苦しい持久の継続を強く求めた。また戦局の大勢が決した時期にも、「死ぬときは、苦労して構築した陣地で死にたい」とする大隊に配備の変更をも厳として命じている。いかなる苦境にあろうとも、勝利、あるいはより大きな成果へのあくなき執念を堅持し、それを部下に求めたのである。
 標題の訓示を終えた栗林兵団長は、司令部の地下壕を出た。ここにいたっても冷静な彼は、周囲の状況を確認して前進を中止した。そして三月二四日から二五日の夜にかけて、敵の砲火が弱まったことを確認すると、中将みずから敵陣地への攻撃前進を命じ、その途上において戦死した。部下に求めた「一人十殺」を実践したのである。


田中恒夫
1949年生まれ。防衛大学校卒業。元防衛大学校助教授。元2等陸佐。

葛原和三
1950年生まれ。陸上自衛隊幹部学校指揮幕僚課程修了。陸上自衛隊幹部学校教官。1等陸佐。

熊代将起
1956年生まれ。防衛大学校卒業。陸上自衛隊幹部候補生学校教官。2等陸佐。

藤井久
1950年生まれ。中央大学法学部卒業。FEP代表。戦史研究家。