戦場の名言
――指揮官たちの決断
昭和二〇年(一九四五)三月一七日/小笠原兵団長 栗林忠道 中将
断じて戦うところ
死中おのずから活あるを信ず。
死中おのずから活あるを信ず。
アメリカ軍は当初、五日間で
死闘もいよいよ最終局面を迎えるにいたり、
徹底した栗林戦法
栗林忠道中将(三月一七日付で大将)は、『愛馬進軍歌』の歌詞の選者で、これを添削した人として知られ、騎兵科出身であった。戦前にアメリカ、カナダと二度の駐在武官の経験があり、アメリカの国力、アメリカ軍の力量については充分承知しており、硫黄島の戦闘がどう推移するかは容易に判断できていたはずである。しかし、終始、必勝の信念を燃やし、情に流されず、理性と論理によった統率に徹した。
硫黄島の守備隊は、第一〇九師団の混成第二旅団を主力とし、これに足止めになったサイパン逆上陸部隊などを加えたものであった。言ってみれば寄せ集めで、
条件に恵まれた
兵団といっても満足な司令部を持たないため、栗林中将はみずから島じゅうをめぐり、懇切丁寧に陣地構築を指導し、徹底持久の戦法の普及に努めた。そして文才豊かな人らしく、美文調の『
玉砕は許さない
硫黄島における小笠原兵団の総兵力は海軍部隊を合わせて約二万一〇〇〇人、来攻したアメリカ海兵隊は六万一〇〇〇人。アメリカ軍には戦車、火砲のみならず、付近を常時
戦力を消耗し尽くした部隊にとって、最後の花道となる突撃も、堅く戒められた。栗林兵団長は、死ぬよりも苦しい持久の継続を強く求めた。また戦局の大勢が決した時期にも、「死ぬときは、苦労して構築した陣地で死にたい」とする大隊に配備の変更をも厳として命じている。いかなる苦境にあろうとも、勝利、あるいはより大きな成果へのあくなき執念を堅持し、それを部下に求めたのである。
標題の訓示を終えた栗林兵団長は、司令部の地下壕を出た。ここにいたっても冷静な彼は、周囲の状況を確認して前進を中止した。そして三月二四日から二五日の夜にかけて、敵の砲火が弱まったことを確認すると、中将みずから敵陣地への攻撃前進を命じ、その途上において戦死した。部下に求めた「一人十殺」を実践したのである。
田中恒夫
1949年生まれ。防衛大学校卒業。元防衛大学校助教授。元2等陸佐。
葛原和三
1950年生まれ。陸上自衛隊幹部学校指揮幕僚課程修了。陸上自衛隊幹部学校教官。1等陸佐。
熊代将起
1956年生まれ。防衛大学校卒業。陸上自衛隊幹部候補生学校教官。2等陸佐。
藤井久
1950年生まれ。中央大学法学部卒業。FEP代表。戦史研究家。
1949年生まれ。防衛大学校卒業。元防衛大学校助教授。元2等陸佐。
葛原和三
1950年生まれ。陸上自衛隊幹部学校指揮幕僚課程修了。陸上自衛隊幹部学校教官。1等陸佐。
熊代将起
1956年生まれ。防衛大学校卒業。陸上自衛隊幹部候補生学校教官。2等陸佐。
藤井久
1950年生まれ。中央大学法学部卒業。FEP代表。戦史研究家。