第三章 チョッちゃん現れる
「よく来たわね、えらかったのね。呼ばれたってわかったのね。なんておりこうさんなの」
文恵さんは手をのばして彼女の首筋を撫でてやった。犬は嬉しそうに、おとなしく撫でさせている。それを見ていると、この二週間というもの毎日のように食事をくれた文恵さんに、犬は飼主に対するような信頼を持ち始めていることがわかる。
「さ、ごはんにする?」
文恵さんは立ち上がってチャムの缶詰を取りに行った。代わっての出番は清さんである。
「よしよし、その間に薬を塗ろうな」
細い顔に眼ばかりギョロリと大きい。その眼玉も、発赤した肌に膏薬を塗ってもらっている間は気持ちよさそうに細くなる。塗っては丹念に伸ばし、すりこんでいく。その間に清さんの頭にこの犬の名前がひらめいた。
「そうだ、おまえはチョッちゃんだ。チョッちゃん、いい名前だろ。チョッ、チョッ、チョッて走るチョッちゃんだ」
文恵さんが持ってきたチャムの缶をあける。清さんは少し得意そうに言った。
「この子はきょうからチョッちゃんていうことにしたよ」
「チョッちゃん? かわいらしいじゃない」
「そうだろ」。清さんは軟膏を塗り終わり、首筋のあたりを撫でてやりながら犬に言い聞かせた。
「どうせもとの名前はわからないんだから、ガマンしてくれ。おまえが口をきけたらな、『私マリ子です』とかなんとか言うところだが、チョッちゃんでもいいだろ。な、当分ここではチョッちゃんだ、なあ……」
「さ、チャムよ。食べていいよ」
だが、この日の彼女は少し様子がちがった。最初の缶はいつものように食べたが、それ以上は口をつけようとしなかったし、牛乳も一杯でやめて、それ以上欲しいとは言わなかった。
「この子、きょうはどこかで食べてきたのね。もう要らないって……だから、きょうはいつもの時間に姿を見せずに様子を見てたんだわ……そう、それじゃ、お帰り、あなたお家があるんでしょ。ね、教えて。どこにあるの。赤ちゃんいるの? いないの? いるんでしょ。だからいつも急いでお家へ帰らなきゃいけないのね、そうでしょ」
チョッちゃんはしばらく文恵さんに撫でてもらっていたが、文恵さんが立ち上がるのを機に、自分もうしろを向いてスタスタと歩き出した。だが、いつもと違ったのは、十メートルほど行ったところで立ち止まり、こちらに向き直ってじっと文恵さんのほうを見ていることだった。
「どうしたの、帰るんじゃないの……」
チョッちゃんはしばらく文恵さんを見ていたが、やがて思い直したように帰路についた。と思うとまた十メートルほどで立ち止まってこちらを見ている。しばらくすると、また思い直したように歩き出し、薄暗がりの中に消えていった。
チョッちゃんが立ち止まって振り返ったことの意味は、このときはまだ文恵さんにはわからなかった。
石井宏
音楽評論家。1930年東京生まれ。東京大学文学部美学科、フランス文学科卒業。日本楽器(現ヤマハ)、東京放送を経て文筆業に。音楽関係の著書、訳書多数。主な著書に『素顔のモーツアルト』(中公文庫)、『ホタル帰る』(赤羽礼子と共著、草思社刊)、『誰がヴァイオリンを殺したか』『反音楽史』(いずれも新潮社刊)がある。『反音楽史』は04年度山本七平賞受賞。