2019年夏に刊行されるや、テレビ、ラジオ、新聞、SNS等で多数紹介され大きな反響を呼んだベストセラー『生き物の死にざま』。その待望の姉妹本が誕生しました。
明日の命もわからない世界で、生き物たちは「今」を懸命に生きています。その命の最後の輝きを、動植物の生態を描くエッセイに定評のある著者が、叙情豊かに描きます。
南極のブリザードが吹き荒れる中、決死の覚悟で子に与えるエサを求め歩くコウテイペンギンの父。季節はずれに成虫となり、夜空に舞うもメスに出会えなかったホタルのオス。七年ほどの時を経てようやく地中から地上に出たものの羽化できなかったセミ……
命のはかなさと尊さを綴った本書。どの世代の方にもお読みいただきたい一冊です。

【カエル】の項より
モズに串刺しにされたものたちの声なき声
蛙(かえる)の詩人と謳われた草野心平(くさのしんぺい)の作品に「蛇祭り行進」という詩がある。主人公はカエルたちだ。
ぴるるるるるるっ
はっはっはっはっ
ふっふっふっふっ後足だけで歩きだした数万の蛙
篠竹に青大将をつきさした
ゲリゲを先頭に
渦巻石鹸の◎(うず)のように
だいりんを描いて行進する『第百階級』
ゲルゲというのは、草野心平の詩によく登場するカエルの名である。
あるとき、棒の先に串刺しにされて干からびたカエルの死体を見つけた。命乞いをするかのように手足を広げた無残な死体は、串刺しにされたまま、冷たい秋風にさらされていた。
もしかすると、彼はゲルゲのように、カエルの戦士だったかもしれない。カエルの英雄だったのかもしれない。
それは、英雄にはあまりにも屈辱的な残酷な光景だった。
いったい、誰がこんなひどい仕打ちをやってのけたのだろう。
秋の終わりから冬の初め頃に、枝の先や有刺(ゆうし)鉄線に突き刺された無残な小動物の死体をよく見つける。これは、「モズのはやにえ」と呼ばれるものである。
はやにえは、漢字では、「速贄」と書く。速贄とは、「最初に捧げられる生贄(いけにえ)」のことを言う。神に捧げた供物(くもつ)にたとえられているのである。
モズという鳥は、捕らえた獲物をその場で食べることなく、鋭くとがった枝先やトゲに突き刺しておく習性があるのだ。やがて、獲物は日の光と冷たい風にさらされて干からびていく。これが「モズのはやにえ」である。
その無残なようすは「はりつけ」とも呼ばれている。
モズは「キィーキィーキィー」という甲高(かんだか)い声が特徴である。全長二〇センチとスズメより一回り大きいくらいの大きさだが、鋭く太いくちばしを持ち、昆虫ばかりかカエルやトカゲも襲う。それどころか、小さなヘビやネズミ、小鳥なども獲物にしてしまうほどで、「小さな猛禽(もうきん)類」と言われている。猛禽類とは、ワシやタカなどの肉食の鳥のことである。

モズはさまざまな生き物を獲物として捕らえ、「はりつけ」にしていく。
モズのいる田園地帯で、冬の晴れた日に、散歩をしているとそんな「はりつけ」をあちらこちらで見かける。
昆虫では、バッタの仲間が目立つが、ハチやケラ、トンボ、コオロギ、コガネムシ、カマキリ、イモムシなどありとあらゆる昆虫たちが串刺しにされている。カエルの犠牲も多いが、ヘビや小鳥さえも容赦(ようしゃ)なくはりつけにされて、干からびている。魚やザリガニが餌食(えじき)になっていることもある。
それにしても、エサを捕らえたのであれば、すぐに食べればいいのに、モズたちは、食べることなく、獲物をはりつけにする。どうして、こんな残酷なことをするのだろうか。
その行動の理由は明らかではない。
エサの少ない冬に備えて、エサを蓄えているようにも思えるが、モズたちははやにえを食べることはしない。はやにえを作れば、それで満足してしまうのだ。
モズには、もともと備蓄の性質があり、はやにえを作るという性質だけが残っているという説もある。
あるいは、ただの殺戮(さつりく)本能なのではないかとも言われる。たとえ満腹であっても、獲物を見れば捕らえてしまう。そして、ただ、殺すことを楽しんでいるかのように串刺しにする。そんな恐ろしいことがあるだろうか。
いずれにしても、食べられることのないはやにえは、枝先でさらされている。
はりつけにされ、さらされた姿は、ゆっくりとしかし確実に彼らの誇りを奪っていくのである。
もうカエルたちは冬ごもりの季節が近づいている。もしかすると、彼は戦士だったかもしれない。もしかすると、彼は英雄だったのかもしれない。
しかし、今は死体だけがさらされたまま、冬を迎えようとしているのだ。
それにしても、カエルたちは、どんな最期を迎えるのだろう。
自然界でカエルは、食べられる存在である。ヘビや、サギなど、さまざまな生き物がカエルを狙い、食べて暮らしている。カエルたちは、どんな死に方をしているのだろうか。幸せな死に方はそこにあるのだろうか。
「蛙は地べたに生きる天国である」と詩人、草野心平は言った。
人間は死ぬことを恐れる。そして、死を恐れて、不幸になる。カエルは死ぬことを知らない。ただ今を生きている。草野心平は、あるがままに生きる蛙に楽園を見つけたのだ。カエルの世界を描いた彼の詩を、紹介しよう。
地球さま。
永いことお世話さまでした。さようならで御座います。
ありがたう御座いました。
さやうならで御座います。さやうなら。
「婆さん蛙ミミミの挨拶」

こんな言葉を残して死ぬことができたら、どんなに幸せだろう。こんな言葉を残せる生き方ができたら、どんなに幸せだろう。
カエルは今を生きている。おそらくカエルは、自分が死ぬことを知らない。だからそこ、今を生きている。そしてあっさりと死んでいくのだ。
カエルの多くは食われて死んでいく。詩の主人公である婆さん蛙ミミミも安らかに天寿を迎えたとは限らない。もしかすると食われながら、もしかするとはやにえになりながら、この詩を詠(よ)んだのかもしれない。
そのとき、地球を感じることができるとしたら……私は地べたに生きるカエルが少しだけうらやましいと思う。
目次より
●羽化をはばまれた夏──セミ
●ある夏の「こぼれ蛍」の孤独──ホタル
●氷の世界で数か月絶食して卵を守り続ける父──コウテイペンギン
●一年半の子育てを繰り返す母グマと銃声──ツキノワグマ
●“幼稚園”での集団保育と、家族に囲まれた最期──ゴリラ
●化石から見えてきた恐竜たちの愛──オビラプトル
●大回遊の末にたどりついたどんぶり──シラスとイワシ
●熱帯からの日本行きは死出の旅──ウスバキトンボ
●「生と死」をまとって生き続ける──樹木
ほかに、クジラ、ウナギ、チーター、ヒョウ、ウシ、コチドリ、渡り鳥、日本ミツバチ、ブロブフィッシュ、カエル、クマケムシ、雑草、人間……などなど
著者紹介
稲垣 栄洋いながき・ひでひろ
1968年静岡県生まれ。静岡大学大学院農学研究科教授。農学博士。専門は雑草生態学。岡山大学大学院農学研究科修了後、農林水産省に入省、静岡県農林技術研究所上席研究員などを経て、現職。著書に、『生き物の死にざま』『スイカのタネはなぜ散らばっているのか』『身近な雑草のゆかいな生き方』『身近な野菜のなるほど観察記』『蝶々はなぜ菜の葉にとまるのか』(いずれも草思社)、『身近な野の草 日本のこころ』(筑摩書房)、『弱者の戦略』(新潮社)、『徳川家の家紋はなぜ三つ葉葵なのか』(東洋経済新報社)、『世界史を大きく動かした植物』(PHP研究所)など。